私が古川さんと出会ったのは1995年。政治部の1年生として総理番をしながら、同年に副長官になった古川さんを担当した。
古川さんは温厚な性格で南青山の官舎に毎晩、大勢の記者が押しかけた。古川さんは決して機密事項を漏らさなかったが、ウソをつけない人でもあった。
当時、沖縄の在日米軍施設、楚辺通信所の地主の一部が賃貸借契約の更新を拒み、形のうえで国が不法占拠した状況に至る事件があった。
私はどうしても、国の対応策を知りたかったが、古川さんは決して秘密を漏らさない。万事休した私は一計を案じた。
当時、古川さんや他の政府当局者から取材した断片的な情報を積み上げ、「おそらくこういう対応になる」というメモ書きをつくった。
当時の旧官邸は副長官室まで、記者が入っていくことが可能だった。顔見知りの秘書官に、封筒に入れたメモ書きを古川さんに渡してくれるように頼んだ。
果たして数時間後、秘書官から電話がかかってきた。
「牧野さん、大変です。副長官がメチャクチャ怒っています!」
慌てて副長官室に顔を出すと、古川さんに「どうして、こういういい加減なことを書くのかね」と言われた。
叱られたのは初めてだったが、古川さんは間違っているところを指摘してくれた。そこは私がどうしても取材で確認が取れていなかった部分だった。
きっと、「誤った記事を書かれては大変だ」という気持ちと「若い記者を育てよう」という親心だったと思う。記事は結局、朝日新聞の1面トップに掲載された。
取材をしながら、私が楽しみにしていたのが、古川さんが身近に接した政治家たちとの裏話を聞くことだった。
私は政治記者を10年以上やったが、一部にあった「政治家と一緒に偉くなる」というようなベタベタした雰囲気が嫌いだった。
政治家を尊敬し、立てながら、政治家との関係で厳しい一線を引く古川さんを尊敬していた。
古川さんは竹下登政権時代、首席内閣参事官だった。竹下政権はリクルート疑惑の影響もあったが、1989年4月の消費税導入が響き、「消費税も支持率も3%」などと揶揄される厳しい状況に陥っていた。
古川さんは総理執務室で、竹下首相に「どうして政府の考えを世論はわかってくれないのでしょうか」と半ば憤慨しながら訴えた。
竹下氏は「税を扱って支持率が下がらない政治家はいない。責任を取るのが政治家の仕事だ。気にしなくて良いよ」と静かに語ったという。
竹下氏は退陣前夜、自宅に古川さんを呼んだ。詰めかけた新聞記者を避けて裏口から入った古川さんに、竹下氏は「明日、退陣の会見をするから記者会見文を書いてくれ」と頼んだという。
竹下内閣の官房長官は、後に首相になった小渕恵三氏だった。ある日、皇太子殿下(今の上皇様)が竹下首相に「(昭和)天皇へのお見舞いに感謝している。国民の皆さんにもよろしくお伝えください」と語ったことがあった。
小渕氏は張り切って、この話を発表しようとしたが、古川さんは「絶対にまずい。良い話ですが、政治が天皇の言葉を代弁するという例を作ると、将来悪用される余地を残します」と言って抵抗した。
小渕氏もすぐ理解し、この話は消えた。古川さんは、こうしたお互いの立場をわきまえた人が好きだった。
古川さんは小泉氏について「立派な人物。知覧(特攻平和会館)で慟哭した。靖国参拝も、若い命を落とした人々の鎮魂が目的だったのだろう」と高く評価したが、郵政選挙(2005年)で、自民党内で郵政民営化に反対した議員らの選挙区に「刺客候補」を立てた件には批判的だった。
「あの一件で、党内のバランスが崩れ、それが官邸一強の構図を作り出し、ひいては政治と官僚の関係が崩れた」と嘆いていた。
古川さんは「小選挙区制の採択(1994年)も、政治と官僚の関係が崩れた原因だ」と語っていた。「中選挙区では自民党議員が2人も3人もいるから、政策では争えない。党の政策は一つだから。そうするとサービスが必要になり、官僚とのパイプが重要になった」
また、「昔の政治家の方が、私を捨てるというか、国家のために公のために、という意識が強かった。今の政治家は自分のために、政権維持のために、選挙のためにという人が多すぎる。それで平気で外交もねじ曲げる」とも語っていた。
安倍晋三元首相や菅義偉前首相らには厳しかった。昨年6月、最後にお目にかかった際、「後ろから、官僚を人事で脅すやり方で、霞が関の空気がこの5~6年で一変した。官邸が全部決めてしまうから、官僚は自分で政策に関与できない。だから、仕事がつらくなる」と嘆いていた。
古川さんが厚生省(現厚生労働省)の官僚だった頃、やはり、未明まで残業することも珍しくなかった。「でも、自分がやりたい仕事をやっていれば、それほど疲れない。今は、自分の仕事に疑問を抱いたり、その意味がわからなかったりするから、同じ時間でもすごく疲れる」
古川さんは近年、優秀な官僚が次々、退職していく姿をみて心配していた。城山三郎の名著「官僚たちの夏」など、もうあり得ない世界だとも語っていた。
お別れの会で、喪主の妻、理津子さんから参列者に「お礼の言葉」が配られた。古川さんは直前までお元気にされていた半面、「自分の人生を今の状態で完結したい。だから、今、死んだとしても悔いはない」と語っていたという。
今頃は、雲の上で、古川さんが面倒をみてきた政治家たちから歓迎されていることだろう。