1. HOME
  2. World Now
  3. 立場の違いを埋める、外交の技 「日韓最高の政治文書」こうしてできあがった

立場の違いを埋める、外交の技 「日韓最高の政治文書」こうしてできあがった

揺れる世界 日本の針路 更新日: 公開日:
日韓共同宣言に署名し、握手する小渕首相(右)と金大中大統領
日韓共同宣言に署名し、握手する小渕首相(右)と金大中大統領(いずれも当時)=1998年10月8日、東京・元赤坂の迎賓館で(代表撮影)

金大中氏が大統領に当選した1997年12月当時、日韓関係には暗雲が漂っていた。

改定作業が難航していた日韓漁業協定を巡り、日本の与党内で「協定をいったん破棄し、韓国に譲歩を促せ」という声が強まっていたからだ。同年11月には四大証券のひとつ、山一証券が破綻。人々はバブル経済崩壊という現実を徐々に実感していた。

同年9月、外務省で朝鮮半島を担当する北東アジア課の課長に就任した佐々江氏は「あの時代は、日本が加害者で韓国が被害者という従来の構図が薄れ、日本が示してきた大きな度量が徐々に消えていく端境期にあった」と語る。

12月29日、漁業協定の最後の交渉のため、ソウルを訪れたのが小渕外相(当時)だった。小渕氏は協定の破棄に反対だったが、自民党農水族は破棄を求めていた。小渕氏は「俺が韓国を説得する」と語り、「今回は韓国側が来日する順番」という周囲の声を振り切っての訪韓だった。

交渉は決裂した。失意のなか、小渕氏が面会したのが当選直後の金大中氏だった。同席した佐々江氏によれば、小渕氏は、韓国で死刑判決を受けるなど長い政治闘争の末に大統領選に勝利した金大中氏に「政治家として尊敬している」と語りかけた。小渕氏が書を依頼すると、金大中氏が「敬天愛人(天を敬い、人を愛する)」と揮毫した。

佐々江氏は両氏のやり取りを眺めながら「2人は人格的、精神的な共感を覚えている」と感じた。「気が合うといった次元ではない、お互いに高みを感じる出会いでした」と語る。

「青瓦台」の名で知られるソウルの韓国大統領府=東亜日報提供

日本は翌98年1月、韓国に協定の終了通告を行った。新協定が結ばれなければ、現協定は1年後に失効することになった。2月には金大中氏が大統領に、小渕氏は参院選後の7月、首相にそれぞれ就任した。

当時、韓国外交省の東北アジア1課長だった朴晙雨氏は「金大中氏は教養がある人物で、日米での経験も豊富でした」と語る。佐々江氏は「金大中政権になり、日韓関係を根本的に変える好機が来るかもしれない」と感じていた。小渕首相が誕生した時、佐々江氏は「外相としての助走期間があるから、ジャンプできるかもしれない」と思った。「最大の目標が金大中大統領の訪日。そのために何をなすべきかと考え、そこから共同宣言を思いつきました」

佐々江氏は「日韓関係を改善したい意欲、共通の戦略目標が、私と朴氏にはありました」と証言する。2人は毎日のように電話で協議を重ねた。最初に、韓国側が簡単な宣言の骨格を出してきた。簡単なステートメントを想定していた。

佐々江氏は「日韓両国民を感動させることが必要だ」と感じた。簡単な声明文に終わらない、両国関係の過去と現在、未来を網羅した本格的な共同宣言が必要だと考えた。「夏の暑い時期、何日も何日も徹夜して、課長の私が課員の作った日本側の大部分の宣言草案を書き直しました」と語る。

佐々江賢一郎・元駐米大使
佐々江賢一郎・元駐米大使=牧野愛博撮影

朴晙雨氏は「宣言には過去の問題を入れるべきだが、1995年の村山富市首相談話以上のものは難しいだろう」と考えていた。同時に「過去だけでなく、さらに未来に協力する内容も必要だ」とも感じていた。

98年6月、外務省の阿南惟茂アジア局長と佐々江氏が日韓局長会議でソウルにやってきた。日本の同意も得て、過去から現在、未来に流れる宣言の骨子が決まった。朴氏は「私たちが8月、宣言草案を出し、日本も修正文を出してきました。9月になると、東京とソウルで何度も会議を重ねました」と語る。

秋にさしかかる頃、共同宣言はほぼできあがっていたが、問題が一つ残っていた。新しい日韓漁業協定の締結が実現しなければ、金大中大統領の訪日に水を差すとみられていた。両国で共同宣言に反対する声も上がりかねなかった。

98年9月25日、首相官邸で小渕首相、野中広務官房長官、中川昭一農水相らと、金大中大統領の特使として訪日した金琫鎬(キム・ボンホ)・国会副議長らが未明まで協議した末、新漁業協定の締結で基本合意した。

当時の柳井俊二外務次官や佐々江氏らは、隣室で何時間も待っていた。佐々江氏は「竹島周辺に暫定水域をどのように設けるのか、韓国の漁獲をどのレベルにするのか。まさに役人任せにしない政治主導の交渉でした」と振り返る。

10月7日、金大中大統領が来日した。

8日の首脳会談後、日韓両政府は共同宣言を発表した。宣言は計11項目に及んだ。佐々江氏は「両国関係だけでなく、アジア地域にも視点を広げました。政治的に困難な問題だけではなく、北朝鮮を含めた安保や経済の関係強化、人的な文化交流も網羅しました」と語る。

韓国は、過去の問題への日本側の対応に強い関心を示していた。朴氏の予想通り、日本は村山首相談話を踏襲した。そのうえで、朴氏は小渕首相が示す「おわび」に当たる韓国語の単語を、これまでの「謝過(サグァ)」ではなく「謝罪(サジェ)」という表現に変えてほしいと依頼した。

朴氏は「私は辞書を引きながら、日本にサグァではなく、より重みがあるサジェにしてほしい、と依頼しました」と語る。佐々江氏から朴氏に「サジェで構わない」という連絡が入ったのは金大中大統領が空港から東京・元赤坂の迎賓館に向かっている最中のことだった。

日本側は謝罪をする一方、同時に韓国側がどのように受け止めるかに注目した。佐々江氏は北東アジア課長に就任する前、スイス・ジュネーブの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で、緒方貞子氏の補佐官を務めていた。

佐々江氏は当時、南アフリカがアパルトヘイトから和解に至った経緯について、緒方氏から「過去を認めれば許し、報復しないということが重要」との点を教えられたことを想起し、日韓でこの方式が適用できないかと考えた。佐々江氏は日韓共同宣言についても「日本が許しを乞うから、韓国が許した、という形を超えて、韓国から和解の手を差し伸べられないかと思っていました」と証言する。

韓国は宣言で「金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるために、お互いに努力することが時代の要請である旨表明した」という一文が入った。佐々江氏は「あの表現が最も重要でした。被害者の韓国から手を差し伸べることは大変だったでしょう」と語る。

さらに、金大中氏は共同宣言で、専守防衛や非核三原則など日本の選後政策について高く評価した。当時、日本は国連安保理常任理事国入りを目指していた。佐々江氏は事前協議で、朴氏に「安保理常任理事国選出を支持してほしい」と依頼した。朴氏は「韓国が支持したから、常任理事国になれるというわけでもないだろう。韓国世論をあまり刺激してもいけない。日本の国際社会・国連での役割拡大を評価するという表現でどうだろうか」と応じた。

金大中氏は宣言で「国連をはじめ、国際社会における日本の貢献と役割を評価し、今後、日本のこのような貢献と役割が増大されていくことに対する期待を表明した」とうたい、間接的に日本を支持した。この発言が、2007年1月に誕生した潘基文国連事務総長への日本の支持につながった。

小渕首相と金大中大統領は宣言最後の第11項目で「新たな日韓パートナーシップの構築・発展に向けた共同の作業」に参加するよう両国国民に呼びかけた。佐々江氏は「宣言しても、両国の国民が理解し、実践しないとただの紙切れになってしまうと思ったからです」と語る。

共同宣言とともに、付属文書として計43項目にわたる行動計画が発表された。朴氏は「43項目の一つ一つを、佐々江さんと一緒に詰めて行きました」と語る。計画のなかには、北朝鮮の核問題を巡る6者協議のように実現した計画もあれば、日韓安全保障対話や防衛交流のように停滞しているものある。

国会で演説する韓国の金大中大統領
国会で演説する韓国の金大中大統領=1998年10月8日

10月8日、金大中大統領は参院本会議場で衆参両院議員を前に約30分間、演説した。戦後日本の歩みを評価し、「私の生命と安全を守るために、努力を惜しまなかった日本国民と言論、日本政府のご恩は決して忘れることはできない」「韓日両国はアジア地域の人権と民主主義の発展のために、共同の努力を惜しんではいけない」と語りかけた。

佐々江氏は本会議場で、演説を終えた金大中大統領が、万雷の拍手を浴びる姿を見ていた。「日韓でもこんなことが起きるのか」と思った。

その後、日韓両国は様々な懸案に直面し、徐々にこの宣言の精神を忘れていった。佐々江氏は「強い意思と信念がないと、どんなに良い宣言でも時が経つにつれて忘れられていきます」と語る。ただ、一方で「今でもこの共同宣言は光を放っています。私の外交官生活で忘れられない文書です」とも語る。

朴氏は「韓国の専門家の一部は、今の韓日関係を複合骨折状態だと説明します。問題が1カ所や2カ所ではないという意味です。でも、金大中政権も、漁業協定破棄という難問を抱えながらスタートしました。当時、私たちは、関係改善にかける両国首脳の強い意思を感じながら仕事をしていました。5月に発足する尹錫悦新政権も是非そうであってほしいと思います」と語る。

そのうえで、朴氏は「両国関係で最も重要なことは、指導者間の信頼です。相手国の国民と指導者への尊重や信頼なくして、両国関係が飛躍的に良くなることは難しいのです」と指摘した。