「在りし日の彼に思いをはせ、彼のご家族、政府、そして友好的な日本国民に心からの哀悼の意を表します。安らかにお眠りください」。アフリカ連合(AU)の議長を務めているセネガルのマッキー・サル大統領は、安倍氏の死を悼むコメントをツイッターに投稿した。
2016年に第6回アフリカ開発会議(TICAD)の開催地となったケニアのウフル・ケニヤッタ大統領の次のコメントは、外交辞令の域を超え、一人の人間としての驚きと悲しみが伝わってくる内容である。
「私の友人であり、ケニアにとって最も重要な開発パートナーである安倍晋三元首相が残忍な銃撃事件で亡くなったことは、全くもって衝撃的であり、何だか信じられない」
アフリカ開発銀行のアキンウミ・アデシナ総裁(ナイジェリア出身)は事件後に発表した長文の声明の中で、安倍氏を「偉大な地球規模の政治家」と称賛し、「シンゾウ・アベはアフリカに特別な愛情を抱いていた」とその死を悼んだ。
あくまで個人的感想だが、筆者の周辺でも、その死を悼むアフリカの人々が少なくない。
銃撃事件翌日の7月9日、筆者は東京外国語大学で「日本アフラシア学会」という小さな学会に出席していた。アフリカ諸国とアジア諸国の比較研究などを中心とする社会科学系の学会である。当日は50人ほどの学会員が出席しており、そのおよそ7割はアフリカの出身者であった。
午前10時から始まった開会式で挨拶に立ったウガンダ出身の学会長は開口一番、「我々は大切な人を失った」と安倍氏の死を悼み、出席者全員に起立と黙祷を促した。
このほか、安倍氏の死を知ったケニア人の友人がナイロビから私に長いメッセージを送ってくるなど、弔意を示したのは国家元首や地域機関トップにとどまらなかった。
安倍氏の最期が病死や老衰ではなく銃撃による殺害だったことに、人々が強く反応した側面はあるだろう。
だが、筆者は、かつてこれほど多くのアフリカの人々から深い弔意を示された日本の政治家を他に知らない。
■旧来思考にとらわれ、迷走した日本の対アフリカ外交
戦後、サハラ以南アフリカで最初の国家独立は1956年のスーダンであった。その後、1960年に17カ国が一斉に独立した。
日本政府は次々と独立を承認し、外交関係を結んだ。しかし、東西冷戦時代の日本外交に、戦略的な対アフリカ外交は存在しなかったと言ってよいだろう。筆者が2019年に面談した80代後半の外務省OBの男性は、「自分が現役だった1960~70年代、アフリカへの赴任は左遷であることが少なくなかった」と往時を振り返った。
日本の対アフリカ外交に最初の転機が訪れたのは、80年代後半から90年代初頭であった。
東西冷戦の終結によって国際社会の構造が激変する中、戦後40年以上続いた敗戦国としての「受け身の外交」ではなく、国際社会の秩序形成に関与するProactive Diplomacy(打って出る外交)を実践すべきだという考えが外務省内で強まり、日本政府は国連における「大票田」のアフリカに白羽の矢を立て、関係強化を図った。
日本政府は93年、東京で初めてのTICADを開催した。欧米のドナー国(援助供与国)の間にアフリカに対する「援助疲れ」の空気が広がっていた中、「国際社会とアフリカ諸国が開発の理念を共有すること」を重視し、その議論の先頭に立とうとした日本のTICAD開催は国際的にも注目された。
TICADは、98年に2回目のTICAD2、2003年に3回目のTICAD3と、5年に1度のペースで回を重ね、日本の対アフリカ外交の柱となっていった。当時の日本の対アフリカ外交は、巨額の政府の途上国援助(ODA)をてこに、「人間の安全保障」や「開発におけるオーナーシップ」といった様々な理念をアフリカの開発にどうやって反映させるかが主な関心事であった。
だが、2000年代に入るころから、日本の対アフリカ外交は混迷の度を深めていく。経済低迷と少子高齢化に伴う財政状況の悪化により、ODAを増やし続けることは事実上不可能となった。
国連安保理改革が盛り上がりを見せた05年、日本政府はアフリカ諸国の支持を背景に常任理事国の座を射止めようともくろんだが、アフリカ諸国を「日本支持」でまとめることはできず、ODA大国としてのプライドは砕け散った。
2000年代は、アフリカで経済成長が本格化し始めた時期でもある。アフリカは「最後のフロンティア」と言われるようになり、各国の企業が投資するビジネスの場へと急速に変容した。2000年からの10年間で、アフリカ諸国が援助ではなく投資・貿易の増大を望む傾向が急速に強まった。
さらに、アフリカ開発の主要プレーヤーだった欧米に加えて、03年ごろからは中国が新たなプレーヤーとして存在感を増した。
そうした中、アフリカを「援助対象地域」と見なす旧来の思考から抜け出せなかった日本は、アフリカ進出で完全に出遅れることになった。日本の影が急速に薄れていたにもかかわらず、10年ごろの時点で、その事実に気付いている日本のエリートは多くはなかった。
■3000人率いてアフリカへ乗り込んだ安倍氏
このように混迷していた日本の対アフリカ外交を抜本的に刷新し、アフリカを「援助対象地域」ではなく「ビジネスパートナー」として位置付け直し、アフリカにおける日本のプレゼンス低下という状況の反転を試みたのが、12年12月に再登板した安倍氏の政権であった。
安倍政権はまず、13年に横浜市で開催したTICAD5で、対アフリカ外交の柱であるTICADの性格を根本から変えた。安倍氏は開会式の基調演説で、日本の民間資金をアフリカに投入することを首相として初めて約束した。
財政事情から増加の見込めないODAへの過剰依存を改め、日本企業の対アフリカ投資を促進するために政府としてあらゆる方策を講じることをアフリカ諸国に確約したのである。
投資誘致に熱心なアフリカ側のニーズに応えて関係強化を図りつつ、人口増加を背景に膨張を続けるアフリカ市場に日本企業を参入させ、利益を日本へ還元させようという野心的な試みであった。日本はアフリカに対するドナーからパートナー(仲間・相棒)へと自らの立ち位置を変えた。
安倍政権はさらにアフリカとの関係強化を目指す意思を明示するために、TICADの開催間隔を5年から3年へと短縮した。
こうして16年に開催されたTICAD6は、日本の対アフリカ外交の転換点となる会議となった。TICAD史上初めて、日本国内ではなくケニアの首都ナイロビが開催地となったのである。
日本からは安倍首相、岸田文雄外相、塩崎恭久厚生労働相、副大臣4人、政務官2人、国会議員8人がケニアを訪れ、首相官邸、外務省、経産省、国交省などからの政府代表団は数百人に及んだ。
財界からは榊原定征経団連会長、野路國夫経団連サブサハラ地域委員会委員長、関山護経済同友会アフリカ委員会委員長らがナイロビ入りした。140社を超える日本企業が役員・社員を派遣し、そのうち約50人はCEO(最高経営責任者)だった。結局、官民合わせた日本からの訪問者数は約3000人に達した(肩書はいずれも当時)。
世界の他の国や地域に対して、これほど多数の日本の権力者たちが一斉に乗り込んだ前例は存在しないだろう。
しかも、TICAD6以前に本格的にアフリカを訪問した日本の首相は森喜朗氏、小泉純一郎氏の2人しかいなかった。安倍氏を筆頭にケニアに乗り込んだ日本人の一行が、アフリカの人々に強烈な印象を残したことは想像に難くない。安倍氏は開会演説で、18年までに官民合わせて総額300億ドルの対アフリカ投資をすると約束した。
続いて19年に横浜市で開催されたTICAD7で、安倍氏は具体的金額こそ示さなかったものの、開会式での演説で改めて日本企業による更なる対アフリカ投資を約束した。13年のTICAD5以降、安倍政権下で各省庁や政府系機関が取り組んだ対アフリカ投資を後押しする施策は枚挙にいとまがない。
だが、安倍政権の対アフリカ外交の真髄は、日本発のアフリカ向け資金をODAから民間投資に切り替えようと試みたことや、アフリカに大挙して乗り込んだことにあるのではないと筆者は考えている。
安倍氏はTICAD6の基調演説で、「日本は太平洋とインド洋、アジアとアフリカの交わりを、力や威圧と無縁で、自由と法の支配、市場経済を重んじる場として育て、豊かにする責任を担います」と明言。アフリカ諸国との共同宣言文書として発出された「ナイロビ宣言」には、「国際法の原則に基づく、ルールを基礎とした海洋秩序の維持」が明記された。
安倍氏はTICAD7でも、「日本にはアフリカと一緒にやりたいことがあります。アフリカと日本を結ぶインド太平洋を、法の支配が貫く国際公共財として大切に守ること」と述べ、「国際法の原則に基づく海洋秩序の維持」は、共同宣言文書である「横浜宣言2019」にも明記された。
TICADの演説や共同宣言文書に「海洋」の文字が入ったのはTICAD6が初めてであり、南シナ海などで国際法支配を無視した振る舞いを続け、自らと異なる主張の主を高圧的な態度と言動で威嚇し続ける中国を念頭に置いていることは明らかであった。
案の定、中国は「ナイロビ宣言」にも「横浜宣言2019」にも猛反発した。
もともと、「航行の自由」といった海洋安全保障の問題に強い関心を抱いていたアフリカ諸国は少なかったし、遠く離れたアジアの海における中国の振る舞いに脅威を感じていた国もほとんどなかった。
アフリカのエリートたちの最大の関心事は長年にわたって自国の経済発展と政治的安定であり、そのために必要な資金をどうやって国外から入手するかであり、世界の情勢に目を向ける余裕も発想も乏しかった。
一方の日本側では、対アフリカ外交はもっぱら「アフリカの問題について話し合うこと」として位置づけられ、対米外交や対アジア外交といった日本外交の最重点分野から半ば独立したものとして認識されてきた。「アフリカ相手の外交やビジネスは、一部のアフリカ好きの人が担うもの」とされる傾向が強く、マスメディアがこの認識を助長してきた。
■アフリカを援助対象から「仲間」に
そうした中、TICADの場で「アフリカをどうやって開発するか」の議論ではなく、「自由・民主主義・法の支配」という普遍的価値の重要性をアフリカ諸国に訴えたのが安倍政権であった。
それは、アフリカ諸国を「援助対象」と位置付ける古典的外交とは根本的に異なる発想に基づいている。
旧宗主国の欧州はもちろん、新たなプレイヤーの中国も、アフリカを「援助する」というスタンスで臨む傾向が強い。
一方、ケニアのケニヤッタ大統領が弔意を示す談話で安倍氏を「開発パートナー」と呼んだことが示すように、安倍政権はアフリカの人々に対して、「ドナーではなくパートナーとして世界の問題を一緒に考えたい」との姿勢を強く打ち出していた。
それがアフリカの人々の自尊心を満たし、日本が目指す多国間協調主義への同意を取り付けることにつながった。こうして、日本の対アフリカ外交は安倍政権下でグレードアップされ、対米外交や対アジア外交といった日本外交の最重点分野とつながり、「地球儀を俯瞰(ふかん)する外交」の一部となったのである。
筆者はかつて、GLOBE+において、日本国民向けの説明に不熱心な安倍氏の姿勢を批判した記事を書いたことがあるが、安倍氏の対アフリカ外交については偉大な功績であったと評価したい。アフリカの人々も同じく正当に評価したからこそ、その死を深く悼んだと筆者は思う。謹んでご冥福をお祈りします。