――大学と大学院でアフリカの紛争や政治などを学んだのち、最初はメガバンクに就職されました。
もともと民族紛争に興味があって、ずっと研究をしていました。なぜアフリカでこんなに内戦が起きているのか、終結した後はどう国を再構築しているのか。それが知りたくて、アフリカへの関心がどんどん高まりました。
学生時代は「アフリカの現場で、社会課題の解決に関わる仕事がしたい」「アフリカの貧困をなくしたい」と、青臭いことを言っていたのですが、ある人から「それってどうやったら実現できるの?」と聞かれ、自分の中に答えがないことに気付きました。現実を知らなさすぎて、このままではダメだと思いました。
そのころ、あるNPO法人の代表に出会い、その人の元でインターンを経験しました。この方は、もともと外資系コンサルで働いていたのですが、会社を辞めてNPO法人をスタートさせ、コンサルなどの経験をいかしながら、社会課題の解決に取り組んでいました。
当時、私はNPOで働くことに「活動家」のようなイメージを抱いていたので、そうではないのだと自分の中で発想の転換が起こりました。「こういうやり方もあるのか」「こういう人になりたい」と思いました。であれば一度、社会に出た方がよいと考えて、内定をもらっていた三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)に就職することにしました。
――「社会に出る」というのは、例えば「お金の流れを知る」ことでしょうか?
そうです。「30歳までにアフリカで起業しよう」と思っていましたが、まずは財務などを知ることで、会社を経営するときに役に立つだろうと考えました。私があこがれたNPO法人代表の方も、コンサル業務を経験されて実務についてもよくご存じでした。
――まずはメガバンクで働いてみて、いかがでしたか?
「30歳までに起業」と思っていましたが、大企業で働くことは、ある意味、「麻薬」のようなものだと感じました。
毎月毎月、お給料が振り込まれ、ボーナスも出ます。周囲の友人や先輩が結婚しはじめて、住宅を購入してローンを組み始めるといったことを見ていると、「これは延ばせば延ばすほど辞められないかも」と思ったのです。会社の仕組みもうまくできていて、3年に1回、人事異動があって、飽きさせずに新たな挑戦の場を提供しているところがありました。
東京・大手町の法人営業部に配属されたのですが、上司や同僚は優秀な方が多く恵まれました。いまでもお付き合いをいただいています。でも、当時の私の中ではモヤモヤが広がっていきました。
――モヤモヤというのは?
アフリカの民族紛争や支援の研究では、例えば、食料や住む場所がない人たちにどのように供給するかなど、マイナスの状況をいかにプラスに転化するかについて考えてきました。
銀行での仕事は、もともとお金がある人たちの富をどう増やすか、プラスをさらにどうやって大きくできるか、という全く真逆の考え方のもと、ビジネスをやるものです。それが、私にとっては合わなかったのです。
「リソースがなくて困っている人たちが世界にこんなにたくさんいるのに、そちらにはお金が回らないで、特定のところにお金が集中するのはなぜだろう」と、そんな疑問がわいてしまったのです。
――モヤモヤを抱えながら働いて、その後、どうしたのでしょうか?
自分の中で転機になったのは「3・11」でした。東日本大震災です。多くの方が亡くなられていくのを見ながら、「私はこんなふうに中途半端に生きていていいのか」「やりたいことがあるのであれば、先延ばしにせずに向き合わないといけない」。そう決心しました。
それから、再びアフリカにベクトルが向き始めました。結果的に、銀行では約2年半働きました。
――退職を決断されたのですね。
転職を決断しNGOなどに転職しようと思ったのですが、募集要項を見た時点で「ダメだ」と絶望しました。大学院も出ているし、大企業にも勤めているし、どこかで拾ってくれるだろうという淡い期待をもっていたのですが、募集要項を見ると途上国の勤務や滞在経験が必要と書いてありました。
「転職を決断したのに、それもできず、自分の人生はどうなるんだろう」と悩んでいたら、笹川アフリカ協会(現ササカワ・アフリカ財団)が海外駐在ではなく東京で人を募集していることが分かり、応募して内定をいただきました。
退職を申し出たときは、銀行の上司から慰留されました。相談した父親からも、「もうちょっと考えたらどうか」「せっかく大手銀行に入ったのだから、もう少しがんばれ」と言われましたが、自分の気持ちは、アフリカで働くことに完全に向いてしまっていました。申し訳ないと思いつつ、こっそり退職届を出しました。その後、2011年10月に笹川アフリカ協会に入りました。
――アフリカに関心を持つに至ったきっかけはあったのでしょうか?
アフリカの民族紛争に興味を持ったのは、高校の授業で緒方貞子さんを紹介するドキュメンタリー番組を見たことです。国連難民高等弁務官時代のお仕事ぶりを見まして、「うわっ、こんな人がいるのか、日本人で」と思いました。「こういう女性になりたい」というイメージができました。緒方さんのことを調べていくと国際関係を教える教授だったと知り、「私も国際関係を勉強しなくちゃ」というところからスタートしました。
難民ってどのような経緯で発生するのか、なぜ人は他人を傷つけてまで自分の利益を優先しようとするのかなど、民族紛争の成り立ちや解決に興味がわいたのです。冷戦崩壊以降、サブサハラアフリカで内戦が頻発していたことを知り、自然とアフリカに関心が移っていったという経緯です。
――メガバンクを退職し、新しい職場での仕事がスタートし、その後はどう歩まれたのでしょうか?
上司には「ウガンダに行きたい」と伝え続けまして、2014年に希望がかない、ウガンダ駐在となりました。仕事は農業支援のプロジェクト管理でした。せっかく念願の駐在ができたので、平日の夕方や休日にいろいろな場所に足を運んで、人に会って話を聞いていました。
そんな中、地元のマーケットに行きました。そこで見つけたのが「アフリカンプリント」だったのです。色とりどりの布が床から天井まで積み上がっていました。次の瞬間には、「あの柄、かわいい!」と興奮して布探しが始まりました。もうワクワクして「日本の女性にも好まれるだろうな」と直感的に感じました。
自分のお気に入りの柄を買って、現地のテーラーさんに衣服を仕立ててもらって着たり、バッグをつくったりしてもらいました。SNSでアップしたところ、みんなから「かわいい」という反応が寄せられました。「ビジネスとしていけるかもしれない」と思いました。
当時は、いまほどアフリカンプリントがトレンドになっておらず、これを大々的に使ったブランドを見たことがありませんでした。もともと起業したいと思っていましたので、「アフリカンプリントを使った事業をやろう」と心に決めました。
――起業の第一歩となったわけですね。
アフリカンプリントでつくったバッグや雑貨を売るビジネスを始めようという思いは膨らんだのですが、当たり前のことに気付きました。私自身は縫製やデザインの経験がないため、何もつくることができないのです。「誰かにつくってもらわないといけない」と考えました。
そのときナカウチ・グレースという女性を紹介されました。手先がすごく器用で、まじめな人がいるんだよと友人から聞いて、会いに行きました。か細い声で話す、自信がなさそうな静かな感じのウガンダ人女性だったのですが、「一緒に仕事をやりませんか」と持ちかけたところ、「やります」と言ってくれました。
自分の力で生活を変えたいという気持ちが強い人だなと思いました。彼女自身は、4人の子どもを抱えたシングルマザーで、3人は実子ですが、1人はHIV感染で亡くなったお姉さんの子どもでした。家や畑はあったので自給自足の生活はできていましたが、子どもにちゃんと教育を受けさせたいという気持ちが強かったようです。
彼女自身は教育を受けていなくて、そのせいで、このような厳しい生活になっている、子どもにはそんな思いをさせたくない、生活を自分で変えたいと考えていたのでした。
その気持ちの強さが分かったのが、自宅を訪問した時です。
「どうぞそこにかけて」と言われてソファに座り、後ろをふと見たら、ニワトリを飼っていました。「家の中で飼うんだ」とカルチャーショックを受けたのですが、なぜ家の中でニワトリを飼っているのかと聞くと、ニワトリは卵を産むから子どもに栄養をつけさせられるし、クリスマスになると売れるからお金をつくれる、と説明してくれました。
外に行ったら豚を飼っていまして、「なぜ豚を飼っているの?」と聞いたら、豚は繁殖率が高くて一頭から多くの子豚が産まれ、子豚を育てると、子ども1人の一学期分の学費と同じぐらいの金額になると言うのです。育てるためのランニングコストも、残飯をあげているので、ほとんどかかっていないということでした。
正直すごいなと思いました。私の友人からは彼女に対し、信頼もおけるし、手先も器用だし、すごくがんばるから、という「お墨付き」もあって、この人と一緒に仕事をやってみようと思いました。それが始まりでした。
――バッグづくりとなると、技術も必要になりますね。
グレースには、やる気と誠実さはあったのですが、残念ながら技術はありませんでした。まずは技術を覚えてもらうところから始めようと思い、現地の職業訓練学校でミシンの使い方を教えていることが分かり、そこで勉強してもらいました。
頑張って技術を身につけバッグの原型となるものをつくってくれたのですが、正直、日本で売れるクオリティーのものではありませんでした。当然ですよね。たかが3カ月で得た技術で、いったい何が売れるんだろうと、自分の読みの甘さを恨みました。
どうしようかと思っていたら、その職業訓練学校で働いている別のウガンダ人女性たちから「私たちもプロジェクトに加わりたい」と申し出がありました。20年近く、テーラーとして働いていた経験があるというのです。
試しにバッグのサンプルを依頼したところ、めちゃくちゃ素敵なものを仕上げてくれました。これならいけると思い、その人に参加してもらいました。スーザンという女性で、いまのうちの工房のマネジャーです。
もう1人、現地にいた青年海外協力隊の人が、革を縫う技術をゼロから教えた女性がいました。協力隊の任期終了とともにプロジェクトも終了と聞き、せっかく身につけたのに技術をいかさないのはもったいないと思い、私の方で彼女を引き取ることに決めました。ウガンダ人の女性3人と、私の合計4人で、2015年に小さな工房をつくりまして、ここから事業がスタートしました。
私たち4人で商品のサンプルづくりに取り組み、いよいよできあがりました。「よし売ろう」と思ったときに、今度は日本で売ってくれる人を探さないといけなかったのです。
――結局、日本で販売してくれる人は見つかったのですか?
当時はまだ笹川アフリカ協会で仕事をしていて、ボランティアベースでこの事業の立ち上げをやっていたので、日本での販売を手伝ってくれる人を見つけなくてはと思い、ふと頭の中に浮かんだのが、私の母でした。「母ちゃん」です。
当時はお金がなくて、外から雇うのも難しい。私と同じくらいの情熱、パッションでやってくれる人を、ほかで見つけるのは難しいと思いました。でも、母ちゃんであれば「お願いベース」でやってもらえて、接客ぐらいはできるかなと思いました。ずっと専業主婦でビジネスの経験は皆無でしたが、頼んだら「いいわよ」と二つ返事で了承してくれました。
この事業をちゃんとしたブランドとして大きくしたいから、「会社、つくろっか」と持ちかけまして、母ちゃんは早速、知り合いの行政書士と相談して、会社をつくる準備を始めました。
同時に、母ちゃんなりの営業活動をスタートしてくれました。
近所の人たちとのお茶会を開いては、「こういうものをウガンダでつくっています」と披露したり、商品のサンプルを街で持ち歩いて、「自分が広告塔だ」という気概を持ってやってくれたりしました。あとは、知り合いのセレクトショップや小売店さんに、「こういうバッグつくっているんですけど」と、お願いをして回り、店舗に置いてもらうことができました。
――地道なところからスタートしたのですね。
そんな感じで、ささやかにスタートしたのですが、ある日、母ちゃんが父ちゃんと静岡市にある百貨店「静岡伊勢丹」で買い物をしていたとき、エントランスで催事をやっていたのです。それを見て「うちのバッグもこういう催事をやらせてもらったらいいのではないか」と母ちゃんは思ったらしいのです。
でも、知り合いにバイヤーさんもいないのでどうしようかと思い、向かった先はインフォメーションセンター。「バイヤーさんに会いたい」と直談判して、なんと「いいですよ」とバイヤーさんにつないでもらうことができたのです。ちょうどバイヤーさんが店内にいて、そこで母ちゃんは初めて名刺交換をして、「今度商談しましょう」と話がまとまったのです。「こんなことになっちゃった」とLINE電話が入り、ウガンダをタクシーで移動中だった私は、思わず「えーっ」と叫んでしまいました。
私は急いで商談の資料をつくりました。母ちゃんもメールで届いたPDF資料を印刷することはできたので、「印刷して持っていって」と頼みました。商談をしたところ、「すごく面白く、こういうストーリー性のあるものを探していました。まずは稟議にかけてみます」とのご返事でした。1週間後、「催事が決まりました」と連絡がありました。売れるかどうか分からないから、わずかな数だけ納品することにしました。
ただ、せっかくなので地元メディアにプレスリリースを配布しようと思い、静岡の各社にお知らせすることにしました。母ちゃんは送付先を「104」で調べ、電話をかけていきました。ひたすらファクスを送り、送ったあと「確認いただけますか」という電話まで入れたのです。
そうしたら、各新聞社から取材の問い合わせがあったほか、地元テレビ局の密着取材も入りました。密着取材が放映されたのが、静岡伊勢丹での催事の2日ほど前だったのですが、催事当日を迎えたところ、母ちゃんのところにバイヤーさんから電話が入り、「仲本さん、大変です。完売で、もう在庫がありません」と言われました。
ウガンダにいる私に、母ちゃんから早朝に電話が入り、「大変、在庫がないんだって」とのことでした。そこで、周辺の小売店さんに在庫をひかせてもらうなどして、何とか催事を乗りきりました。
そんなスタートでした。ちょうど日本でもアフリカンプリントに注目が集まり始めたころで、「これから流れが来るかもしれない」と思いました。ほかの百貨店さんとのコラボも決まり、私は「二足のわらじ」を履いている場合じゃないと思い立ち、アフリカ協会を辞め、会社経営に打ち込むことにしました。
工房で働くウガンダ人女性の3人も、とても喜んでくれました。自分たちがつくったものが、日本のお客さまに受け入れられているということが、本当にうれしかったようです。オーダーが入ったことを伝えると、それがモチベーションになっているようでした。
――いま、ウガンダの工房では何人ぐらいが働いているのですか?
20人ほど働いています。全員が正社員です。ほとんどが自らの生活をより良くしたいとがんばるシングルマザーです。
――運営はうまくいっていますか?
彼女たち自身で、工房をちゃんと運営できるようになっています。コロナ禍もあって、私がこうして日本にいても現地で製品がつくれるように、1人ひとりが自分の役割を認識し、チームで仕事に従事しています。
工房のマネジャーであるスーザンは、生産管理をするほか、工房のメンバーの面倒を見ながら、誰かが休んだら誰かがフォローできるようにするなど奮闘しています。原材料の調達チームがいますし、輸出管理も担います。それぞれが役割と責任をもつことで、ようやく工房が自立的に運営されるようになりました。
最近は、現地の女性たちから「マダム(仲本さん)、これをやっていないよ、どうなっているの?」といった具合に、逆に私に指摘があるぐらいで、「いい感じ、いい感じ」と思っています。
――アフリカ支援、ウガンダ支援という要素は、ビジネスで前面に出していないですね。
商品そのものに対する、「あー、かわいい」「うわ、すごい」「この色が好きだ」といった感動を大事にしていただきたいと思っています。よく言われることですが、「支援」の気持ちで買ってもらうものって、1回で終わっちゃうんですよね。
でも、ビジネスとして成り立たせるには、それだけでは難しくて、お客さまの根源的なニーズや感動などに触れるものでないと、また買おうとはならないですよね。支援のために買ってもいいんだけど実際に使うかなあ、では「タンスの肥やし」になってしまう。ごみになるかもしれない。
「かわいい」とか「この色づかいがいいね」という感動があったうえで、その先に「このバッグは、だれがつくっているんだろう」という関心が出てきて、ようやくウガンダの女性たちの話が出てくる、という流れを思い描いています。
お客さまが愛着をもってくれるような仕掛けを、これからも、どんどんつくっていこうと考えています。また、お客さまには、私がウガンダのローカルマーケットで感じた「宝探し」のような感覚を感じてほしいと願っています。
社会通念や固定観念でがんじがらめになっていた価値観を、私たちのアフリカンプリントの商品を手にとることで一気に解放し、「私って、こういうものが好きだったんだ」という気持ちを、お客さまが再発見し、大事にしてもらえたら嬉しいです。