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presented by 立命館アジア太平洋大学(APU)

「内なる熱」で地域の価値を高める IT企業の経験をまちづくりに生かす佐竹正範さん

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佐竹正範さん(本人提供)

――まち作りに携わるようになったきっかけは何だったんでしょうか。

一番最初は高校生のときです。進路を考えていてある新聞記事を思い出しました。

中学生のときに読んだ記事でした。福井県あわら市出身なんですが、地元紙で「3年後の福井はこうなる」と未来予想図が書かれていました。それを読んでとてもわくわくしたんです。

進路を考えていた頃は、その記事に書かれていた3年後の「未来」を予想していました。だけど、全くその予想通りにはなっていなくて、がっかりしたんです。「僕のわくわくを返してほしい」と。

だったら、自分がまちをわくわくさせる仕事がしたいと思ったんです。

――地域への思いは、早いうちからあったんですね。では進路も自然とその方向に?

はい。それで観光について学ぼうと、関係する学科のあった神戸の大学に進学しました。

大学在学中に阪神大震災が起きて、ボランティアに参加しました。

ボランティアに参加したのは、単純にやっている人がかっこよく見えて「モテそうだな」と思ったからなんですが、そこでいろんな体験をしました。

仮設住宅を回りながら、自治組織をつくるお手伝いなどをしました。そんな仮設住宅で、孤独死される方がたくさんいました。住み慣れた地域から切り離されて、周りに知り合いもいないなかで、人知れず亡くなるんです。「これは日本中の地域でこれから起こることじゃないか」と感じました。

学生ボランティアをしていた時期に、「情報の流通」についても考えるようになりました。

あるとき、自分たちのボランティア活動について新聞の取材を受けました。でも掲載されたのは「神戸版」。すごく限定された地域にしか配達されません。

情報の流通がどうしてこんなに限定的なんだろうと思っていたときに、友人の家でインターネットというものを知りました。世界中どこでもつながるなんてすごいなあと。しかも、そのとき見たサイトがたまたまヤフーだったんですよ。

逆に情報を得ようとする場合、大災害の後では行政の情報は遅くて頼りにならないことも実感しました。当時インターネットの普及はまだ限られていましたが、これでどちらも解消できるじゃないか!と興奮しました。

――その後、そのとき知って感激したヤフーに入社されるんですね。

卒業後、最初はとにかくいろんな情報が集まる東京に出ようと思いました。

あるPR会社に就職して、長野オリンピックの仕事に関わるなどの仕事をしたあと、ヤフーに入社したのは2000年です。ブランドマーケティングやCSRに携わりました。

企業の社会貢献についても活発になっていた時期で、東日本大震災後の東北の復興支援の仕事を担当することになりました。

地域×ITがテーマでした。復興支援の活動をベースにITで地域活性化を掲げました。2015年からは、内閣府などが後援する「ふるさと名品オブ・ザ・イヤー実行委員会」の幹事長もつとめていました。

福井のまちづくりの仲間と(佐竹さん提供)

――そうした仕事が、北海道での町おこしの仕事につながったんですね。

ある日「美瑛町に行ってみないか?」と。2016年からヤフーから北海道美瑛町に出向し、主に地域DMO(観光地域づくり法人)の立ち上げをしました。町の政策調整課長補佐という肩書です。3年間の予定だったんですが、1年延長して20年まで勤めました。

観光のマネジメントやマーケティングにデータを取り入れたり、交流型や体験型の商品を開発したりしました。

出向を決めたのは、ヤフーで地域おこしの仕事をしながら、ずっとはがゆさを感じていたからでもあります。

風の人、土の人という言葉がありますが、自分は「風の人」として、ずっと地域を活性化するための種まきをしてきました。

だけど、種をまいてもなかなか芽が出なかったり、育たなかったりする。やはりその種をまく「土」のことをよく知らないといけない。そんな思いがあったんです。

――その土地を知るために、どんなことをされましたか。

まちづくりのサポートをしようと言っても、東京から突然行って、知り合いが一人もいないわけです。だからまず知り合いを作ろうと考えました。

ほぼ毎日飲み歩いたんです。スナックで飲んでいると、ビールジョッキを片手に持ったおじさんが絡んできました。「おまえどこから来たんだ」と。それでお話するんですが、最初はけんか腰で。

僕も「このままじゃ地域が消えてしまう」と反撃して、怒らせたかな、と思ったんですが、おじさんが「今度はしらふで話をしよう」と。

――本音でお話ができたんですか?

実はその人が地域のキーパーソンだったんです。

僕は民間からの出向といっても、相手からすると行政側の人間。行政のヒエラルキーと民間のヒエラルキーは違うので、いくら行政側が動かそうとしても動かない場合がある。そういうときに、民間のキーパーソンを巻き込めば動き始めるんです。

それから、毎週水曜日の夕方に、町民交流施設のコミニティカフェで、とにかくそこに座っていました。「未来を妄想する会」という名前でした。

そうすると行政に文句が言いたい人がちょこちょこ来るようになりました。でも実はそういう人が大事なんです。

――文句が言いたいということは、まちづくりに興味があるということですね。

そうなんです。まちづくりに興味があって、こうあれば良いなと思っている人たち。だからそういう熱量の高い人たちが集まって、そのエネルギーを一緒の方向に向けたいと思ったんです。

地域の(価値を高めるための)ブランド化、と良く言いますが、僕はブランドというものは、わき上がるものだと思うんです。コップの中の水が熱を持っていて、それがいっぱいになってあふれて広がっていくものがブランド、というイメージ。だから、外から「ブランド」をつくろうとするのではなく、中に熱がないとだめなんです。

――とはいえ、知らない場所に飛び込んで文句を言われて。大変ではなかったですか。

たとえば言葉一つとっても、行政と民間では意味が違ったりします。

「事業」という言葉は民間では利益を出すものですけれど、行政だと予算消化。こういうことひとつひとつを翻訳してひもときながら、コミュニケーションを取らないと話がずれてしまう。そういう部分をほぐしてつなぐことが、自分の役目だと思っていました。

――今のお話を聞いて、同じ日本のなかでも「異文化」コミュニケーションをしないといけないということかな、と思いました。

その通りですね。僕は外国生活をしたことはありませんが、多文化、異文化って実はすぐ近くにもあるんですよね。そういう意味で、文句を言われることもありましたが、大変というよりは楽しかったです。

自分とは違う視線を持った人たちと話すと、新しい視点を与えてくれるので楽しいんです。

福井のまちづくりの仲間と(佐竹さん提供)

――今年から福井県観光協会の観光地域づくりマネージャーになりました。

ヤフーから美瑛町の出向は3年間だったんですが、もう一年ということで、現在の会社(紀尾井町戦略研究所)に移り、引き続き美瑛町で仕事をしました。

キャリアを積みながら、「いつか福井で役立つだろう」と意識していましたし、周りにも「いずれは福井に」という話はよくしてたので、今回の募集があったときに知人が教えてくれたんです。僕にぴったりじゃないかって。

――高校生の頃から抱いていた故郷での仕事に「熱」を持って取り組むんですね。とは言え、過疎化や財政難など、地方の状況は厳しいです。

日本の人口はこれから急激に減っていきますから、いまのままでは地方はどんどんなくなっていくでしょう。現状維持は死を意味すると思っています。だからこそ、観光をつかってまちを元気にしていきたいと思っています。

観光のあり方も、特にコロナ以降は変わっています。かつてのような団体旅行ではなく、もっと個人にフォーカスしたものや、新しい価値観を提示していかなくてはならないでしょう。

北陸新幹線の福井・敦賀までの延伸が2023年度末に予定されているので、これは「100年に一度」のチャンスだと思っています。来た方が満足できるような地域にしていきたいですね。