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私がマンデラに学んだ、政治家の言葉の重さ 説明しない日本の政権は不信任に値する

研究室から見える世界 更新日: 公開日:
南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領(左)、デクラーク元大統領(右)。2人はそろってノーベル平和賞を受賞した。2006年撮影=ロイター

政治指導者が政策や国民の感じている疑問について「説明」し、野党や国民を「説得」しながら政治を進めることは、民主主義国家の原則である。

指導者による「説明」が重要なのは、国民が政策や政権運営の妥当性を検証し、自らの暮らす社会を自分の手でデザインするためには、情報が不可欠だからである。

「説得」が重要なのは、異論反論の包摂こそが民主主義社会の生命線であり、我々の社会が中国のような専制主義国家とは異なることの証左だからである。

筆者が民主主義社会における「説明」と「説得」の大切さを強く意識することになったきっかけの一つは、大学院生時代と新聞社特派員時代の2度にわたって暮らした南アフリカ共和国(南ア)の偉大な政治家、ネルソン・マンデラ(1918~2013年)の言葉であった

■寛容の精神と、武器としての言葉

マンデラは、南アで1990年代初頭まで続いた人種差別政策アパルトヘイトに反対する闘争の先頭に立ち、1990年に釈放されるまで約27年間、政治犯として獄中にありながら人種差別反対の信念を曲げなかった不屈の精神の持ち主として知られている。

だが、マンデラのもう一つの偉大さは、1994年の初の全人種参加選挙で黒人初の大統領に選出された後の思想にあった。そして、その思想を体現していたのは、彼が政治指導者として発した数々の言葉であった。

1990年に来日し、衆院本会議場で演説するマンデラ氏=朝日新聞社撮影

マンデラの言葉は、国民同士の和解に向けた寛容の精神に貫かれていた。その言葉は今日、書籍や映画で知ることができるが、大統領時代(1994~1999年)の数々のエピソードに基づいて制作された2009年の米国映画「インビクタス 負けざる者たち」では、名優モーガン・フリーマン演じるマンデラが民主化で権力を手にした黒人同胞に向けて、次のような言葉を発するシーンが描かれている。

アパルトヘイト時代の南アでは、人々が楽しむスポーツも人種によって異なり、支配者のオランダ系白人(アフリカーナー)はラグビーを好み、一方の黒人はラグビーのナショナルチーム「スプリングボクス」を差別の象徴として嫌悪していた。

民主化直後、新たに黒人が主導権を握った南アスポーツ協会の総会で、「スプリングボクス」の名称とエンブレムの廃止が決定されようとしたその時、会場に到着したマンデラはチーム名とエンブレムを存続させるよう黒人の委員たちの説得に乗り出す。「アフリカーナーはもはや敵ではない。同じ南アフリカ人だ」と切り出したマンデラに会場の黒人たちはどよめくが、マンデラは「スプリングボクス」を存続させるべき理由を懸命に説明した。

「彼らは民主主義のパートナーだ。彼らにとってスプリングボクスは宝物だ。それを取り上げてしまえば、我々は彼らの支持を失う。今は彼らを慈悲と奥ゆかしさと寛容の精神で驚かすべき時だ。そう、これらは全て、彼らが我々に対して拒んできたものだ。しかし、今は卑屈な報復を楽しんでいる時ではない。使えるブロックは全て使い、国家を再建すべき時なのだ」

静まり返った会場に向けて、マンデラは最後に静かに言う。「皆さんは私を指導者に選んだ。だから今は、私に皆さんを導かせて欲しい」
このシーンは映画用に脚色されたものだが、マンデラが白人への復讐に燃える黒人の政治家や大衆を懸命に説得し、スプリングボクスを存続させたことは実話である。マンデラは民主化後の最高権力者でありながら権力を武器とせず、言葉を武器に政治を進めた政治家だった。その言葉には、国家再建に向けた冷徹な計算と寛容の精神が込められており、国民に向けた徹底した「説明」と「説得」があった。

■安倍、菅両氏に共通する致命的欠点

筆者がマンデラの言葉に思いをはせるのは、2012年の総選挙で政権に復帰した自公政権が「説明」と「説得」という二つの点において、あまりに国民を愚弄していると感じることが多いからである。

現代日本の政治家に、「20世紀最後の偉人」と言われるマンデラと同じ振る舞いを求めるつもりは毛頭ない。しかし残念なことに、安倍晋三前首相と後継の菅義偉首相は、「国会や国民に向けて情理を尽くして説明し、異論の持ち主を説得することへの関心が低い」という点で共通しているように、筆者には見える。そういう政治家をリーダーにいただく政党を総選挙で信任してしまえば、日本の民主的統治は骨抜きになり、若者が変革の希望を抱くことのできない社会が固定化してしまうのではないかと恐れている。

自民党は安倍前首相の下で選挙に勝ち続けてきた。5年5カ月続いた小泉政権の2006年9月の退陣以降、1年おきに首相が交代していた状態から脱却し、長期安定政権が成立したことは歓迎すべきだろう。第2次安倍政権の7年9カ月(2012年12月~2020年9月)は日本では最長だが、国際的な基準に照らし合わせれば決して長過ぎるとは言えない。

何より、日本は短期的にも中長期的にも様々な課題に直面しており、改革のために首相の強いリーダーシップが必要であることは疑いない。民主党政権(2008年9月~2012年12月)のガバナンスの欠如に懲りた国民はその点を理解していたからこそ、安倍政権下の各種選挙で自民党を勝たせ、強い政権を支持してきたのだろう。安倍、菅の両政権が手掛けた個別の政策については賛否両論があるだろうが、筆者は外交安全保障分野を中心とする両政権のいくつかの実績については、正当に評価されるべきだと考えてきた。

しかし、二つの政権、というより2人の首相には、「情理を尽くして説明しないし、説得もしない」という、民主主義国家の政治指導者としては致命的な欠点があるように思う。その欠点はとりわけ安倍政権の後半以降に顕著になり、安倍政権の番頭格だった菅氏が政権を引き継いだ現在、ほとんど手の施しようのない水準に達し、日本社会を蝕んでいるように思える。小泉政権時代に日朝首脳会談を実現させた元外交官の田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長は、安倍、菅両政権の特質を「説明しない」「説得しない」「責任を取らない」の「3S」であると述べている。同感である。

主催した「桜を見る会」であいさつする安倍晋三首相(当時)=2019年4月13日、東京都新宿区の新宿御苑(代表撮影)

安倍氏は森友学園や加計学園の問題、桜を見る会などで疑惑を持たれ、国会で虚偽答弁までしたが、国民に向けて「おわび」の言葉は発しても、全ての問題において「誰がいつ何をしたのか」という詳細な事実関係を明らかにせず、整合性のある説明をしたこともない。

河井克之・案里夫妻の選挙買収事件に関連して自民党から支出された1億5000万円は、誰がいつ、どのような理由で支出を決断し、金は最終的に誰の手元に行ったのだろう。安倍氏は当時の自民党の最高責任者だが、この件でも「説明」はない。

政権を引き継いだ菅氏は、官房長官時代の記者会見で「その指摘は当たらない」という言い回しを多用していたことが示すように、他者への情理を尽くした説明を好まない性格であることを感じさせる人物であった。

菅氏は首相就任後の昨年10月26日にNHKの報道番組に出演した際、日本学術会議が推薦した105人のうち6人を任命しなかった問題について、司会者が「説明を求める国民の声もあるように思う」と述べたのに対し、「説明できることとできないことがある」と発言している。

菅氏の言う通り、現実の社会には、公の場での説明が難しい機微に触れる事柄が存在する。意思決定の内幕を全て暴露していたら、政府も企業も学校も存立できない。

しかし、だからこそ、国権の最高機関に送り込まれた政治家たちは話術・話法を究め、歴代の自民党の首相たちは、時に詭弁(きべん)を弄してでも様々な事柄について懸命に「説明」を試みてきたのではないだろうか。その過程で、嘘をついてその場をしのいだ首相はいたかもしれないが、テレビカメラの前で、いらいらした表情で「説明しないことの正当性」を強弁する首相はいなかったように思う。菅首相の登場には、正直なところ驚きを禁じ得なかった。

■主権者の自覚が問われている

菅首相は緊急事態宣言を発出する際の記者会見で、いつも国民に向かってカメラの前で深々と頭を下げる。誠意を示しているつもりなのだろうが、「説明」とは固有名詞や日時などを含む事実関係を明らかにしたり、政策決定過程において判断の根拠となった統計等についての具体的情報を広く開示したりする営みである。深々とお辞儀することではない。

首相が「説明」して情報を開示すれば、野党やマスメディアから批判され、揚げ足を取られることもある。だが、噴出した異論反論の中から傾聴すべきものを政策へ取り込み、可能な限り反対者を「説得」することもまた、民主主義国家の指導者の重要な仕事であるだろう。

東京五輪で日本人選手初の金メダルを獲得した柔道・高藤直寿選手と電話で話す菅義偉首相=2021年7月25日、首相公邸、代表撮影

ところが残念なことに、安倍、菅の両氏は「説明」のみならず「説得」にも関心があるようには見えない。

安倍氏は最近、月刊誌の対談で日本国内のオリンピック開催反対論について、「共産党に代表されるように、歴史認識などにおいても一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対しています」と述べている。

安倍氏にとって、五輪に反対する日本人は、日本人であっても「反日=敵」なのだろうか。少なくとも、意見の異なる人々を「説得」したり、寛容な心で包摂したりしようという意思があるようには見えない。

安倍氏は、自分を大きく見せるためにあえて過激な物言いに走る陣笠議員ではない。一時代を築いた国家の最高実力者である。だからこそ、その物言いには、戦後の歴代首相たちとは根本的に異なる、何か空恐ろしいものを感じている。

一方、菅政権は7月上旬、緊急事態宣言下でも酒の提供をやめない飲食店に対する施策として、①金融機関を通じて融資先の飲食店に感染防止対策の徹底を働きかける。②酒類販売業者に対し、酒の提供をやめない飲食店との取引停止を求める――などを始めようと試みたが、世論の猛反発を受けて撤回した。

文句と批判ばかりの野党と国会で議論するなど面倒くさい。法的根拠などどうでもよいから、省庁の監督権限をちらつかせて業者を締め上げた方が話が早い――。そういう政権の本心が拙速な施策の打ち出しにつながったのではないか。

筆者は一連の騒動に、他人を「説得」することへの菅首相の関心の低さが反映されているように感じていた。本来ならば新型コロナ対策の強化には法改正を含む様々な手続きが必要だが、政権側は野党の国会延長要求に耳を貸さず、早々と国会を閉じてしまっている。

新型コロナウイルスワクチンを接種する菅義偉首相=2021年3月16日、東京都新宿区の国立国際医療研究センター、関田航撮影

新型コロナ対策に関する菅首相の記者会見やメディア対応を見ていると、「安心・安全」という文言を繰り返すだけで、その根拠となるデータや判断の経緯に関する事実関係がほとんど「説明」されない。終了と再発動を繰り返している緊急事態宣言の実効性を担保するために、情理を尽くして国民に「説明」し、必死で「説得」しているようにも見えない。

議院内閣制の下で、そういう人物をリーダーにいただく政党に過半数を与え、政権の存続を認めるということは、私たちが「自分たちの暮らす社会を自分たちの判断によってデザインする」という民主主義の原則を放棄することに等しいと、筆者は考える。

大げさに思われるかもしれないが、今秋までに行われる衆議院選挙は、私たちの主権者としての自覚がかつてないほど問われる選挙になるのではないだろうか。