発表したのは、のちに「平成おじさん」と言われた小渕恵三官房長官だった。
首相官邸の記者会見場に姿を現した長官は、見た目にもひどく緊張していた。着席すると一瞬天をあおいで、深呼吸をし、あわただしく眼鏡を直した。
手もとも落ち着かない。マイクに入るほどガサガサ大きな音を立てて、発表用の紙を広げた。
「新しい元号は……ヘイセイであります」
そう言って、机の上に伏せておいた額を持ち上げた。細めの楷書で「平成」とあった。
急いで立ち上がる記者、ぶつかる椅子の音。記者会見場は騒然となった。
駆け出しの政治記者として首相官邸を担当していた私にとって、記者生活の原点になるような場面だった。
あの当時のことを思い出すと、不思議な感覚に包まれる。
天皇も元号も、今日では想像できないくらい重たい存在だった。崇拝する側にとっても、批判する側にとっても、昭和天皇は時代に屹立する巨大な君主だった。かつて現人神と言われ、その人の名の下に長い戦争が戦われた。数多くの人命が犠牲になった。歴史的評価をめぐって論争は絶えなかった。
そして昭和は、64年目に入っていた。昭和以外の元号のもとで暮らすことなど、大多数の国民にとって実感がわかなかったのではないか。昭和が終わるということは、なにか未知の時間に突入するのではないか、という不安感があった。だからこそ、昭和天皇が大量の下血をした前年1988年9月からの逝去までの110日間、社会は緊迫し、行き過ぎた「自粛ムード」が続いたのだろうし、人々はひとつの時代の終わりに大きな喪失感を感じたのだろう。
あの日、天を仰ぎ、深呼吸をしたのは、小渕長官だけではなかったのだ。
だが、今年5月1日に「平成」が新しい元号に変わるとき、あの「昭和最後の日」に抱いた感慨を覚えることはないだろう。もちろん、今回は天皇の生前退位だから、そもそも事情は違うのだが、今後、将来も繰り返される多くの「改元」のひとつという位置づけになるのではないかという気がする。
それにしても「昭和」とはなんとくっきりとしたイメージを持つ時代だろうか。
戦争と動乱の「戦前・戦中」。平和と繁栄の「戦後」。
破滅への道をたどる「戦前・戦中」。廃墟から不死鳥のように復興する「戦後」。
見事なコントラストで描くことができる。
それにひきかえ、平成はどうだろう。
およそ2万2000日の昭和に対して、平成の約1万1000日は、ほぼ半分にあたる。
十分に長い時代だ。しかし、昭和のようにくっきりとした輪郭で、とらえられるだろうか。
それは難しいのではないか。私はそう思っていた。昨年の12月23日までは。
85歳の誕生日を迎えるにあたっての天皇陛下の記者会見で、私は突然、頭を殴られたようなショックを受けた。1989年1月の即位以来の30年間を振り返っての言葉だった。
「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べられた。
1933年生まれの天皇は、もの心ついて以来、ずっと戦争の時代を生きてきた。1931年に始まった満州事変は、1937年に日中戦争となり、1941年の真珠湾攻撃で、世界を相手にした全面戦争となる。11歳の時に大日本帝国の崩壊を目の当たりにした。
そうした戦争経験の重みが、度重なる内外の慰霊の旅の背景にあることは想像していたが、ご自分が天皇の座にある間に戦争が起こらなかったことを、「安堵」という言葉で表現されたのは衝撃であった。
なぜ私が衝撃を受けたのか。一昨年の夏以来、朝日新聞の紙面で展開してきた平成関連の企画に加わり、様々な形で平成時代を総括する報道に携わってきた。しかし、「戦争のない時代」という視点で、回顧することは思いつかなかった。
海図なき時代、議会政治の劣化した時代、閉鎖的ナショナリズムが高まった時代……など、平成という時代は、何かが崩れてきた、という感覚は持っていた。戦争が「なかった」という視点で総括するとは……。
平成の30年間は、たしかに戦争が「なかった」。これを逆転すると、次の時代は「戦争がない時代」なのだろうかという問いになる。
極めて重大な問いかけではないだろうか。私は言葉を失った。
そしてこう思った。
「安堵発言」を踏まえて、もういちど平成を論じ直す必要があるのはないか。
平成という時代に戦争がなかった意味を、考え抜かねばならいのではないか。
残念ながら、年が明けてからも、いまだ回答を見いだせていない。
だが、この連載コラムの中で、機会を改めて答えていきたい。
ポスト平成を生きるためには、避けては通れない問いなのだから。