この連載もコロナ疲れです
この連載では、3月17日の回からずっと、新型コロナウイルスのパンデミックに関連した問題を論じてきました。相変わらず状況は深刻なのですが、さすがに筆者もちょっとコロナ疲れしてきましたので、今回は気分を変えて、まったく違う話題をお届けしたいと思います。
4月22日は、ウラジーミル・レーニン生誕から150周年という記念の日でした。言うまでもなく、1917年の社会主義ロシア革命の立役者にして、それにより成立したソビエト・ロシアの最高指導者です。レーニンは1870年4月22日の生まれですので、そこからちょうど1世紀半の年月が経過しました。
ごく個人的なことですが、筆者が初めて(そして最後に)ソ連という国を訪れたのは、1990年4月のことでした。当時、モスクワの街には至るとこに、「祝! レーニン生誕120周年」といった掲示物が掲げられていましたので、レーニンの誕生日はしっかり筆者の記憶にインプットされました。もう、それから30年も経ってしまったわけですね。
プーチン大統領が当初、改憲を問う国民投票を、4月22日に実施しようとしていたのも、明らかに、レーニン生誕150周年という節目を愛国的なムードの高揚に利用して、圧倒的な多数で改憲への賛意を取り付けたかったからなのだと思います。しかし、コロナウイルスの蔓延で国民投票どころではなくなり、3月25日には投票の延期が発表されました。
というわけで、今回のコラムでは、レーニンを取り上げます。ただし、超有名人ですので、その生涯、思想などについては歴史家、ソ連・ロシア研究者等によって語り尽されています。本コラムでは、世論調査結果を手掛かりにしながら、現代のロシアにおいてレーニンがどのような存在なのかということに絞って論じてみたいと思います。
レーニン誕生日の認知度には年代差が
今回皆様に紹介したいのは、ロシアの「世論基金」という社会調査機関が、本年4月11~12日にロシア全土で1,000人の成人回答者を対象に実施した電話アンケートの結果です。
この調査で、まず、「4月22日は、我が国の歴史のどんな出来事と結び付いた日か?」と尋ねたところ、「レーニンの誕生日」と正しく答えられたのは、47%でした。社会層別の回答状況は、図1に見るとおり。最も顕著なのは、年配の人ほどレーニンの誕生日を知っており(ソ連時代に国を挙げて祝っていたので当然でしょう)、若い人たちにはその認識がほとんどないということです。あとは、学歴による差(義務教育→専門教育→高等教育と進むほど学歴が高くなる)が、多少見られる程度でしょうか。それ以外の、男女差や、居住地域の差などは、あまり大きくありません。
次に、「レーニンはロシア史にどんな役割を果たしたか?」という設問の回答状況が、図2です。全体では、56%が肯定的役割と回答しており、否定的役割の20%を大きく上回っています。注目すべきことに、これに関しては社会層別の差があまり見られません。知識水準が高い層ほど否定的な評価が若干増える傾向こそありますが、若い世代を含め、レーニンについてのイメージは総じてポジティブであることが確認できます。
「レーニン」を消し去ることには反対
かつて、レーニンの名を冠した代表的なものと言えば、「北都」ことレニングラード(レーニンの街という意味)市でした。しかし、ソ連末期の1991年に実施された住民投票の結果(54%が改名に賛成)、同年9月にレニングラードは革命前の名前であるサンクトペテルブルグへと戻されています。ただし、その郊外部分に当たるレニングラード州の名前は変更されず、必ずしもレーニンの名が忌まわしいものとして捨て去られたわけではありませんでした。
ロシアの街では今日でも、最大の目抜き通りが「レーニン大通り」と名付けられている場合が、ほとんどです。そして、街の中心に行政府の庁舎があり、その前に「レーニン広場」が設けられていて、そこにレーニン像が立っているというのが、お決まりのパターンです。一例として、アルハンゲリスクという街の風景の写真を上に載せましたので、ご覧ください。
当然のことながら、ロシアが共産主義・社会主義とは決別した以上、レーニン通りやレーニン広場の類も改名した方がいいのではないかという議論は、時折持ち上がります。今回のアンケート調査で、その賛否について尋ねたところ、結果は図3のようになりました。賛成が13%、反対が76%であり、反対派が圧倒的に優勢です。意外にも、レーニンの誕生日を知らないような若い世代でも、通りや広場の名前を変えることには、反対論の方が多いのです。
もう一つ、広場や公園からレーニン像を撤去すべきかという質問への回答でも、図4に見るとおり、反対論が圧倒的です。ここでは、反対の声が83%へとさらに膨らみ、しかもなぜか若い世代ほど反対論が強いというのが特徴的です。正直言えば、この数字には筆者も驚きました。
なお、本コラムの冒頭にレーニン廟の写真を掲げましたが、ここでは保存処理を施されたレーニンの遺体が廟内に安置され、一般公開されています。レーニンの遺体をこれからもこの廟内で展示し続けるのか、それとも埋葬を施すべきかというのは、宗教・倫理的な問題も絡むだけに、はるかにデリケートです。今回の「世論基金」による調査ではこの問題が問われませんでしたが、2017年に「レバダ・センター」が調査した際には、廟に残すべきだという意見が41%、廟から撤去すべきだという意見が41%で、真っ二つに割れました。
レーニンという人物に心酔しているわけではない
ロシアでは今日でも、街の真ん中に必ずレーニン像があり、大多数の国民はその撤去に反対している。そう聞くと、事情を知らない外国人は、「レーニンは圧倒的に人気があるんだな。この国では、いまだにマルクス・レーニン主義を信奉しているのだろうか?」などと勘違いしてしまうかもしれません。実際には、そういうわけではないのです。
この連載の第1回で、「なぜプーチンは『偉大』なのか?」というコラムをお届けした際に、「過去500年のロシアで最も偉大な君主は誰か?」というネット投票の結果を紹介しました。スターリン、ピョートル大帝、プーチンらに比べ、レーニンははるかに低い支持しか受けていませんでした。良くも悪くも、レーニンはロシア国民の情念を激しくかきたてるような存在ではないのです。
連載第1回で筆者は、「ロシアで尊敬されるのは、強権的にでも国内に秩序をもたらす君主、諸外国に屈せず国益を守る君主、領土を拡大する君主です」と指摘しました。そうした観点からすると、おそらくロシア国民の意識では、レーニンは思想家・革命家としては偉大かもしれないし、大国ソ連の礎は築いたけれど、国家指導者としてはやや物足りないというイメージがあるのではないでしょうか。
それなのになぜ、ロシア国民は通りや広場にレーニンの名前を残したがり、レーニン像の撤去には難色を示すのでしょうか? そのヒントは、これも以前のコラム「ロシア国民はソ連崩壊の何がそんなに残念なのか?」にあります。ロシアでは、時期にもよるものの、概ね過半数の国民がソ連邦の崩壊を悔やんでいます。もちろん、ソ連にはモノ不足など問題も多々あったものの、超大国として世界にその名をとどろかせ、国内にはそれなりに秩序がありました。ソ連体制を復活させることは不可能だし望ましくもないが、過去を全否定はしたくないというのが、ロシア国民の心情なのだと思います。そして、その過去が、レーニンという象徴と結び付いているのでしょう。
他方、ロシア以外の旧ソ連諸国で、民族主義や反ロシア主義が高揚すると、まず標的としてレーニン像が打ち壊されるという現象が起きます。たとえば、お隣のウクライナでは、割と最近までレーニン像が残っている街が多かったのですが、2014年の政変に際して、ほとんどが破壊されました。ロシア国民は、そうしたバンダリズムへの嫌悪感から、「我々はレガシーを守るのだ」と意地になっている面もあるでしょう。
というわけで、ロシアでいまだにレーニンの名前やレーニン像が至る所にあるからといって、レーニンという人物がロシア国民の大ヒーローというわけではありません(増してやマルクス・レーニン主義は何の関係もありません)。その証拠に、新しく出来た施設にレーニンの名前が付けられたとか、新たにレーニン像が作られたといった話は、聞いたことがありません。あくまでも、以前からあったものを否定はしない、というだけなのです。