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ソ連共産党と中国共産党、それぞれの誕生の地を訪ねる

迷宮ロシアをさまよう
ミンスクにあるロシア社会民主労働党第1回党大会の家博物館。ソ連時代には見学者でごった返したと言うが、今日では訪れる人は少ない。なお、掲げられているのは今日のベラルーシ共和国国旗(撮影:服部倫卓、以下同様)

ソ連テーマパークのベラルーシ

大国ロシアの西隣にある人口1000万足らずの小国、それがベラルーシ共和国です。ソビエト連邦(ソ連)時代にはベラルーシの人々は「最も忠実なソビエト人」とされ、1991年末に独立を果たして以降も、かつてのソビエト的な価値観を色濃く留めています。

首都ミンスクをはじめとするベラルーシの各地には、マニアにはたまらない「ソ連萌えスポット」が数多く残っています。「ソ連テーマパークを作って観光資源にすべきだ」、「ソ連の歴史を伝える貴重な遺産としてユネスコの世界文化遺産に登録したらどうか」というのは、この国を知った誰もが感じること。ウクライナあたりなら、そういったソ連遺産は、とっくの昔に破壊されていることでしょう。

そんな、来たるべき(?)ユネスコ世界文化遺産の構成資産として、筆頭格に挙げられるのが、ミンスクにある「ロシア社会民主労働党第1回党大会の家博物館」です(冒頭写真参照)。1898年にここミンスクでロシア社会民主労働党の創立大会が開かれたわけですが、ロシア社会民主労働党というのは、要するに後のソ連共産党のことです。つまり、20世紀の世界政治を揺るがすことになるソ連共産党は、サンクトペテルブルグやモスクワのような帝都ではなく、当時は田舎町にすぎなかったミンスクでひっそりと産声を上げたのでした。

ちなみに、そのソ連の歴史に終止符を打った出来事も、舞台はベラルーシの地でした。1991年12月、ベラルーシ西部のベロベージ原生林に、この時点でソ連邦を構成していた12共和国のうち、エリツィン・ロシア大統領、クラフチューク・ウクライナ大統領、そしてシュシケビチ・ベラルーシ最高会議議長の3元首が集結。3人の電撃合意で超大国ソ連は崩壊し、治める国を失ったゴルバチョフ・ソ連大統領は退陣を余儀なくされたというわけです。「ソ連の歴史は、ベラルーシの地で始まって、ベラルーシの地で終わった」などと言ったら、こじつけに過ぎるでしょうか。

ロシア社会民主労働党第1回党大会の家博物館の展示。当時の雰囲気は感じ取れるが、正直に言えば、それほど貴重な展示物があるわけではない。

なぜソ連共産党はミンスクで誕生したのか

ここで改めて、ロシア社会民主労働党第1回党大会と、今日も残るその記念館について、解説させていただきます。

今日、人口200万に迫るベラルーシ共和国の首都ミンスク。この街を東西に貫く独立大通りがスビスロチ川と交わるところに、緑色の小さな木造家屋が建っています。この家こそ、1898年にロシア社会民主労働党、のちのソ連共産党の創立大会が開かれた場所。正確に言えば、現在の建物は1948年に再建され、それが1953年に区画整理に伴い若干スビスロチ川寄りに移築されたものなのですが、今もなお記念館として一般に公開されています。

現在でこそ大都市に膨れ上がっているものの、19世紀末のミンスクは人口9万の平凡な街でした。激動の20世紀を彩るソ連共産党の誕生の地として、ふさわしくないような気もします。ただ、ベラルーシ地域を含む帝政ロシア西部諸県は、ヨーロッパからロシアに社会民主主義思想が流入する経路に当たるということもあり、ユダヤ人を中心に革命運動が盛んな土地柄でした。そして、19世紀の末に、キエフ(現ウクライナの首都)の活動家が中心になって、その勢力を結集しようということになりました。しかし、大会開催の動きがキエフの官憲に察知され、代替地としてミンスクでの開催が決まったというのが真相です。

その際に、ミンスクでの大会開催に尽力したのが、前年に結成されていたユダヤ人組織「ブンド」の活動家たちでした。彼らが開催場所として白羽の矢を立てたのが、ピョートル・ルミャンツェフという政治活動歴のある鉄道職員が間借りしていたミンスクの一軒家でした。かくして、帝政ロシア各地から9名の活動家が参集し、1898年3月13日から15日にかけて、設立大会が開かれたのです。

活動家たちは、ルミャンツェフの妻の「名の日」の祝いをする振りをして集まりました。当局が踏み込んできたらすぐに書類を燃やせるよう、暖炉には火がくべられていました。二重窓の1枚をあらかじめ取り払い、いざという時には窓から脱出して、スビスロチ川を渡って対岸の林に逃げ込む手はずでした。

のちのソ連共産党の創立大会といっても、このように人目をはばかったものでしたし、当人たちがその歴史的意義を自覚していたかどうかも微妙です。シベリア流刑中のレーニンが不参加であったのをはじめ、ロシア革命を彩る綺羅星のような人士は一人も参加していません。キエフから来たボリス・エイデリマンという人物が議長役を務め、「ロシア社会民主労働党」という党名こそ決めたものの、綱領もマニフェストも採択できませんでした。ゆえに、5年後の1903年にブリュッセルで開かれた第2回大会が、「実質的な創立大会」と呼ばれたりします。ミンスクに馳せ参じた9名の活動家は、いずれも革命家として大成しませんでした。

9人の参加者のうち、最も数奇な運命を辿ったのは、アレクサンドル・バノフスキーでしょうか。この人物は1919年に日本に亡命し、東京でロシア語教育と日本研究に携わりました。帰郷の願いを果たせぬまま、1967年に93歳で亡くなっています。

上海の中国共産党第1次全国代表大会会址

中国共産党誕生の地は?

私は2016年9月に国際学会出席のため中国の上海に出向きました。その際に、上海の「新天地」と呼ばれる旧租界エリアを散策してみました。その動機の一つは、ここに「中国共産党第1次全国代表大会会址」という史跡があるということを知ったからです。ベラルーシのミンスクに3年間も駐在し、「ロシア社会民主労働党第1回党大会の家博物館」を散々見てきた自分なので、中国共産党の第1回党大会の聖地も見学せねばと、変な使命感に駆られたのでした。

中国共産党第1次全国代表大会は、上海代表だった李漢俊という人物の自宅で、1921年7月23日から開かれました。大会では、活動報告が行われ、党綱領および今後の活動方針などが検討されました。中華人民共和国成立後の1952年、建物は革命の聖地として記念館に改築され、1971年には増築もされて、今日に至るということです。

ところが、残念。私が訪問した月曜日は休館日で、記念館の内部は見学できませんでした。ですので、建物の外観を眺め、写真だけ撮って帰ってきました。とはいえ、ミンスクのロシア社会民主労働党第1回党大会の地と、上海の中国共産党第1次全国代表大会の地を両方訪れたことがあるような日本人は、稀なのではないでしょうか? 一応自慢にしたいと思います。