真っ白い胴着を着た子供たちの声が体育室の中に響いていた。
「アジン(1)、ドゥバ(2)、トゥリ(3)」
北方領土・色丹島の斜古丹(しゃこたん、ロシア名・マロクリリスク)にあるスポーツセンター「色丹アリーナ」。子供たちが稽古に励んでいるのはロシアで人気が高まっている軍の白兵戦用につくられた実践的な格闘術だ。
10人ほどの子供たちの表情は真剣そのもの。コーチの構えるミットをめがけ、鋭い突きや蹴りを次々と繰り出していく。試合形式の練習では、安全を考えて頭や胴、足にプロテクターもつけている。
この体育室があるのはアリーナの2階。中央に敷かれた試合用のマットを囲み、サンドバッグやパンチングボール、トレーニング器具がずらりと並ぶ。1階にはバスケットボールやバレーボールなどの球技ができる広い体育室もある。シベリアのクラスノヤルスクから来たインストラクターのヤロスラブ・ザバーギンさん(31)は「施設はとても豪華。ロシア本土でも、どこにでもあるようなレベルじゃない」と話す。
色丹アリーナがオープンしたのは2017年3月。ロシア政府が地域開発の目玉としてつくった「クリル諸島(千島列島と北方領土のロシア側呼称)社会経済発展計画」により建設された。館長のセルゲイ・ロギノフさん(43)は「島民にとっては待望の屋内スポーツ施設だ」と打ち明ける。色丹島は1994年の北海道東方沖地震で大きな被害を受け、体育室を備えた新しい文化会館も壊れてしまった。その後、20年以上、屋内スポーツ施設がない状態が続いていたという。
住民の期待に応えるため、器具の購入には住民アンケートの結果を反映させた。チーフ・インストラクターには、モスクワのスポーツ大学を卒業し、陸上の国際大会で優勝経験もあるスポーツ選手を本土から招いた。営業時間は火曜日から日曜日の午前9時~午後10時で、大人の利用料金は100~150ルーブル(約170~約250円)、18歳までの子供は無料だ。格闘技や球技、ストレッチなどに平均で週400人が通う。ロギノフさんは「島民にスポーツの習慣を根付かせたい」と意欲を示す。
色丹島ではほかにも社会経済発展計画によるインフラ整備が急速に進んでいる。2015年7月には、島中部の穴澗(あなま、ロシア名・クラボザボツク)に総合病院が開業。内科や外科、小児科、産婦人科、歯科があり、それまで島にはなかったマンモグラフィーなどの新しい設備も整備した。治療のためにサハリンに船などで行く負担が大幅に軽減された。
今年5月には新しい幼稚園が開園。サハリン州のコジェミャコ知事は滑走路の建設にも意欲を示している。2017年8月には北方領土で初の経済特区が色丹島でつくられ、水産加工場のプロジェクトが進行中だ。斜古丹のロシア側行政トップであるセルゲイ・ウソフさんは「経済特区ができ、人口が増えている。島はこれから発展するだろう」と自信を示す。
色丹島では20年ほど前までは、親日的な雰囲気が強かった。1994年の地震のころ、ソ連崩壊後の経済や社会の混乱期にあり、ロシア政府からの支援が遅れたこともロシアへのあきらめに近い島民感情を膨らませた。一方、日本は大量の食糧や医薬品を送ったほか、診療所や発電所もつくって積極的に支援。島民の中には「島を日本に引き渡してもいい」という声が強くなったという。
だが、プーチン大統領が2000年に就任した後、原油高の追い風も受けてロシア経済は発展に向かい、社会も安定。プーチン氏は極東開発にも積極的な姿勢を示し、日本への編入を望む島民の声は小さくなっていった。安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領が2016年12月の日ロ首脳会談で、北方領土での共同経済活動を目指すことで合意したが、実は島での期待はそれほど盛り上がっていない。
1956年に日本とソ連が結んだ日ソ平和条約には、平和条約締結後に色丹、歯舞の2島を引き渡すと明記した。プーチン氏も日ソ平和条約を日ロ交渉の基礎とする考えを示しており、2島返還が日ロの落としどころとの見方は根強くある。色丹島の住民の中には、共同経済活動が返還の布石になると恐れている人さえいる。
ウソフさんも「日本人に関係するテーマには興味はない。彼らが何かをすれば、何かを要求される」と、日本への警戒感を示す。また、「エネルギーや観光、ゴミのリサイクルでは共同経済活動に賛成だ。ロシアより優れた技術があるから」としながらも、「漁業などでは、それほど(日本の協力は)いらない。日本が魚を取り尽くすから」と主張する。
9月中旬にウラジオストクで開かれた東方経済フォーラム。北方領土問題に向け、共同経済活動を前進させようと乗り込んだ安倍晋三首相を待っていたのは、ロシアのプーチン大統領の予想外の提案だった。
「年末までに、前提条件なしで平和条約を結ぼう。(領土問題などの)懸案は条約に書き込めばいい」
プーチン氏の強気の姿勢の背後には、着々と進む北方領土の開発と、それに対する住民の支持に自信を深めていることがある。