ロシアが実効支配する北方領土では、最近はロシア政府の予算によって病院や体育館、道路、光ファイバーケーブルなどのインフラ整備が進み、住民の生活も向上してきた。ただ、ソ連崩壊後にロシアの社会・経済が混乱した時期は、日本政府がロシア人の島民らのために人道支援事業としてインフラなど様々な支援をしてきた。一部は、いまも島の生活に欠かせないものとなっている。
色丹島の町である穴澗(あなま、ロシア名クラボザボツク)にあるディーゼル発電所もその一つ。地区の電力を供給していた発電所が燃え、翌年の1999年に日本が人道支援として建設した。昨年11月、フリージャーナリストのウラジーミル・ラブリネンコさんが取材で訪れた。壁には「日本国民の友情の印として」などと日本語とロシア語で書かれたプレートが飾ってある。
建物の中に入ると、ゴーという発電機の大きな音が聞こえる。うるさいので、中で働く人はヘッドホンのような防音用の耳あてをつけているほどだ。技術者として働くウラジーミル・ボイトコフさん(当時66)は「もともと発電所の使用期間は10年間の予定だった。それなのに、ほぼ2倍となる19年を過ぎても問題なく働き、地域に十分な電力を送っている」と日本に感謝しているという。
補修用の部品は日本から取り寄せているというが、日本の技術者は訪れることはなく、部品交換などの整備は自分たちでするのだという。「丁寧に整備するから、長持ちするんだ」と得意げだ。色丹島では新しい発電所の計画もあるが、ボイトコフさんは「あと5年は使える。なぜ閉める必要があるのか」と不満を漏らした。
発電機と並んで色丹島の住民に頼りにされているのが、色丹島と国後島を結ぶ航路で使われている「自航式はしけ」だ。名前は「希望丸」と「友好丸」で、日本の人道支援事業として、それぞれ98年と2001年にロシア側に引き渡された。当時、ロシア側では、「我々の経済力では船を用意できない。とても助かる」と喜ぶ声があった。
日本からのビザなし交流のグループを乗せて国後島や色丹島を訪れる北方四島交流船「えとぴりか」と港の間の移動手段にも使われた。ただ、両島を結ぶ航路で使われることに対しては、もともと日本側は「沖合の船と港との連絡手段」と想定していただけに、日本の元島民らからは「島のインフラ整備が進んで返還が遠のくのではないか」「話が違う」などと心配するする声も出たという。
ラブリネンコさんによると、いまも希望丸と友好丸は島民の貴重な交通手段だ。基本的に週2便だが、客が多いと増やすこともできる。波の状況など気象条件にもよるが、片道は4~6時間。「中には暖かい部屋と2段ベッドもあり、冬でも快適に移動できる」という。
特に色丹島民にとっては国後島への交通手段は死活問題にもなりかねない。なぜなら国後島や択捉島と違って空港がないからだ。サハリンとの間を往来するフェリーはあるが、フェリーが故障した場合や、大急ぎのときにサハリンやモスクワなどに向かうには、国後島の空港を利用するしかない。16年にはヘリコプターによる国後島までの空路をサハリン州政府がつくったが、便数は週2便と決まっているうえ、値段は、はしけの3~4倍。しかも国後島は霧などで悪天候となることが多く、はしけが運航できても、ヘリは飛べないこともある。
もっともロシア側によるインフラ整備が進むにつれ、日本が支援した設備の存在感が低下しているのも事実だ。ロシア政府は07年、「クリル諸島(千島列島と北方領土のロシア側呼称)社会経済発展計画」を策定。日本が95年に人道支援の一環として色丹島に建てたプレハブの診療所は、今は救急用施設という扱いになっているといい、ラブリネンコさんが取材で訪れた日も人影はなかった。
択捉島でも、日本政府が99年に人道支援の一環としてつくったディーゼル発電所が、ロシア側が地熱発電を完成させたことにより使われなくなった。国後島では日本から送られた小型バスが古くなり、いまは新しいロシア製バスが増えている。北方四島の島民はロシアとして自立した形での発展に自信を深めており、日本が領土交渉の布石になると期待する共同経済活動に対しても冷ややかな視線は少なくない。地域の水産・建設大手ギドロストロイのユーリ・スベトリコフ社長は「『共同経済活動をしよう。その後、あなた方の島を奪う』という方法は正しくない」と言う。
色丹島は94年の北海道東方沖地震で大きな被害を受けた際、日本政府が緊急人道支援を展開して多くの島民を救ったことから、北方四島の中でも親日色が強いと言われる。それでも斜古丹(しゃこたん、マロクリリスク)行政トップのセルゲイ・ウソフさんは「日本には興味がない。私はロシアの支持者だ。彼らが何かをすれば、代わりに何かを要求される」と話していた。