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中国との国境の街ブラゴベシチェンスクに生きる ロシアの街物語(5)

迷宮ロシアをさまよう
ブラゴベシチェンスクでの「国境警備隊員の日」に、パフォーマンスを披露する民謡・舞踊アンサンブル。背景に見えるのは、アムール川の対岸の中国・黒河のビル群(撮影:服部倫卓)。
ブラゴベシチェンスクでの「国境警備隊員の日」に、パフォーマンスを披露する民謡・舞踊アンサンブル。背景に見えるのは、アムール川の対岸の中国・黒河のビル群(撮影:服部倫卓)。

街物語は続く

本連載では、時折、「ロシアの街物語」と題して、ロシアの街にまつわるあれこれを語ってみたいと思っています。ちょうど、サッカー・ワールドカップがロシアで開催されましたので、まずは日本代表が試合を行う4つの都市を紹介しました。サランスク、エカテリンブルグ、ボルゴグラード、ロストフナドヌーというのが、そのラインナップでした。

残念ながらワールドカップは終わってしまいましたが、「ロシアの街物語」はこれからも続けていく予定です。筆者は本年5月にロシア極東アムール州の州都ブラゴベシチェンスクを初めて訪れ、様々な見聞を得てきましたので、今回はブラゴベシチェンスクの物語を綴ってみたいと思います。

「国境警備隊員の日」に遭遇

ブラゴベシチェンスクに滞在していた5月27日の日曜日、その日は特に予定もなかったので、アムール川(中国側の呼び名は黒竜江)沿いの公園を散策してみました。すると、あたりは妙に賑やかであり、ただ単に日曜日だから人々が繰り出しているようには思えません。

実は、ロシアでは5月28日が「国境警備隊員の日」とされており(ロシアでは様々な職業の記念日が公式的に決まっている)、このお祭りはそれを1日早く祝うものだったようです。しかも、アムール州国境警備隊発足から100年という節目だったらしく、その分、盛大に祝われていました。

それに加え、5月27日から6月2日にかけて、ブラゴベシチェンスクの街誕生から162周年の祝賀行事が行われていました。ちなみに、市の誕生からは162年とそれほどキリも良くありませんが、本年はアムール州創設から160周年であり、今年1年をかけて記念イベントが続くようです。というわけで、私がブラゴベシチェンスクを訪れた5月末は、とにかく色んな祝賀が重なり、初夏の日曜日ということもあって、多くの人々が繰り出す盛大なお祭りになったということのようです。

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アムール川で水遊びをするロシアの子供。対岸の中国まで簡単に泳いで行けそう(撮影:服部倫卓)。

中国との攻防の歴史

思えば、このブラゴベシチェンスクの地で「国境警備隊員の日」を迎えたというのも、不思議な巡り合わせです。ロシアには80あまりの地域(州、共和国など)がありますが、その中心都市(日本で言うところの県庁所在地)が外国との国境に直に接しているのは、ここブラゴベシチェンスクだけ。一般的にロシア人は、外国に直に面しているような場所には都市を建設したりせず、充分な緩衝地帯を設けようとする傾向があります。それだけに、ブラゴベシチェンスクのような重要都市が外国と、しかも中国というデリケートな相手と直接向き合っているというのは、とても稀有なことなのです。

現在ロシアのアムール州となっているアムール川左岸(北岸)の土地を巡っては、ロシアと中国が歴史的に攻防を繰り広げてきました。1640年代にポヤルコフという人物に率いられた探検隊が、ロシア人としては初めてアムール川流域を探検し、1644年に後のブラゴベシチェンスクの地に到達しました。1653年には商人・探検家のハバロフが、この地に砦を築くことを決めました。しかし、1689年のネルチンスク条約により、アムール左岸が清朝領となったため、ロシア人は当地からの退却を余儀なくされました。

それでも、清朝が衰退に転じると、ロシアが巻き返します。1856年に現在のブラゴベシチェンスクの地に砦を築いて兵士を駐屯させており、これが街の誕生年となりました。そして、1858年のアイグン条約で、ついにロシアはアムール左岸を自国の領土としました。同年に皇帝アレクサンドル2世の命により、ブラゴベシチェンスクを州都とするアムール州が創設されました。というわけで、今年はブラゴベシチェンスク市の誕生から162年、アムール州創設から160年ということになるわけです。

ちなみに、ブラゴベシチェンスクという街の名は、1858年に砦において受胎告知(ロシア語でブラゴベシチェニエと言う)を記念したロシア正教聖堂の建立が始まったことにちなみます。同年にアイグン条約締結を受けて砦が市に昇格した際に、そこから市の名が付けられたものです。

清朝末期の1900年に義和団の乱が発生すると、同年7月に義和団がブラゴベシチェンスクに2週間にわたり立てこもるという事件が起きました。 ロシア軍はブラゴベシチェンスクに住んでいた清国人を襲撃し、対岸の母国に逃げ延びられなかった清国人3,000人以上がアムール川で命を落としました。ロシア軍はさらに、清国側の黒河鎮、愛琿城を焼き払って住民を虐殺したと伝えられます。  

すでに述べたように、アムール州には160年の歴史があるとされているものの、その版図には紆余曲折があり、それが今日のような形で確定したのは、第二次大戦後の1948年のことです。戦後のアムール州は、アムール川を挟んで中国・黒龍江省と向き合うこととなり、中ソ国境のうちアムール州の部分は1,250キロメートルにも及びました。1949年の中華人民共和国の建国当初こそ、中ソ関係は良好でしたが、1950年代後半から中ソ対立が激化していきます。中国との国境に面するブラゴベシチェンスクでは、外国人の立ち入りは禁止され、ソ連の市民による訪問すらも厳しく制限されていました。

ブラゴベシチェンスクの街が、今日のように開放され、また中国との間で人々が行き来するようになったのは、ソ連邦末期の1980年代末のことでした。

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ブラゴベシチェンスクの古い住宅では、不自然に低い窓が目立つ。もう人は住んでいないのか、荒れ果てた家屋が多かった(撮影:服部倫卓)。

窓の位置に見る歴史の暗部

アムール州では、1865年に金(ゴールド)の採取が始まり、以降ブラゴベシチェンスク市とアムール州は金生産と密接に結び付いて発展していくことになります。今日でもアムール州はロシア屈指の金生産地域です。

ただし、帝政ロシア時代、たとえ金が採れても、このような辺境の地に移り住むことを希望する人は稀でした。同じ時期にアメリカでゴールドラッシュが発生したのとは、対照的ですね。そこで帝政ロシア当局は、古儀式派などの宗教的異端者を中心に、当地への移住を強制したと言います。

今日、ロシアの都市部では集合住宅が圧倒的に多くなっていますが、ブラゴベシチェンスクでは街中に木造の戸建て住宅が所々に残されていました。その際に、窓の位置が不自然に低い家が目立ちます(写真参照)。5月に現地で聞いた話によると、帝政ロシア時代に当地に移り住んだのは宗教異端者などの反体制分子が多かったので、官憲が家の中を監視しやすいように、窓の位置を低くすることを義務付けたのだそうです。

さて、ブラゴベシチェンスクの物語はこれくらいにして、来週はこの延長上で、ロシアと中国の国境地域協力についてお話したいと思います。