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ベルリンの壁崩壊から30年(前編)激動に飲み込まれたかつての日本人留学生はいま何を思うか

迷宮ロシアをさまよう
東西ドイツ統一後の東ベルリンの風景。統一前には東ドイツ政府庁舎として使用されていた建物は解体され、かつての国民車トラバントは打ち捨てられている。(撮影:出井健一郎)

現地で歴史的事件を目撃した芳地隆之さんに訊く

ベルリンの壁が崩壊したのは、1989年11月9日。それから30年の歳月が流れました。当連載では、今回と次回の2回にわたって、この歴史的大事件に関連した記事をお届けします。

私の所属団体のロシアNIS貿易会は、当時はソ連東欧貿易会という名前で、東ドイツも事業対象国でした。しかし、ベルリンの壁崩壊を経て、翌年に東ドイツは西ドイツに吸収合併され、国として消滅してしまいます。私自身は、東ドイツという国をついぞ訪問することができませんでした。

したがって、かつて存在した東ドイツという国、東ベルリンという街、そしてベルリンの壁についての私自身の知見は、ごく限られたものです。そこで、前編では、特別ゲストにご登場いただきます。私の元同僚である芳地隆之さん(現在は「生涯活躍のまち推進協議会」事務局長)が、壁の崩壊当時、東ベルリンに留学しており、その経験を綴った著書も発表しておられますので、インタビューに応じていただきました。以下、そのやりとりをご紹介いたします。

壁の崩壊に抱いた複雑な思い

服部 まず、芳地さんが東ドイツにかかわり、東ベルリンに留学することになったいきさつを教えてください。

芳地 ぼくの大学時代の指導教官(故五十嵐敏夫・中央大学名誉教授)が演劇を通した日本と東ドイツの文化交流に尽力していたことから東ドイツに関心をもち始めました。大学を卒業後、団体職員として働いているなかで、日本DDR(ドイツ民主共和国=東ドイツの略)友好協会連絡会議という親善団体の推薦を受けて、1988年秋に東ベルリンのフンボルト大学に留学することになったのです。

服部 そして、1989年11月にベルリンの壁崩壊に遭遇し、その時の経験をもとに、『ぼくたちは「革命」のなかにいた ―東ベルリン留学グラフィティ』、『壁は必要だった ―大国ドイツ三たびの民族主義』と、2冊の著作を上梓します。デヴィッド・ボウイの「ベルリン三部作」は有名ですが、芳地さんの場合には「東ベルリン二部作」ですね(笑)。

ただ、私は今回、これらの本を読み返して思ったのですが、確かにこれらの2作では壁の崩壊が一つのハイライトになっているものの、芳地さんが本当に取り上げたかったモチーフは別のところにあったのではないでしょうか。つまり、もしも壁の崩壊がなかったとしても、語りたかったことがあったのではないかと。

芳地 はい、おっしゃるとおりです。ベルリンの壁崩壊の夜は歓喜よりも戸惑いの方が大きかったのをよく覚えています。というのも、その直前まで、東ドイツ市民の間で「この国(東ドイツ)をどう立て直すか」という議論があちこちで自然発生的に起こっていたからです。自由で民主的な社会主義という、それは戦後の旧東欧諸国で試みられてはソ連の戦車で潰されてきた考えですが、当時のソ連もゴルバチョフの下で変わってきた。手作りの民主主義がどこまで可能なのか、そんな期待を抱かせるものでした。ところが、唐突に壁が開放されたことで、そうした機運は吹き飛び、豊かな西ドイツと一緒に、という方向へなだれ込んでしまった。残念でしたが、私自身は日本国籍をもつ者として東西ベルリンを行き来できたわけで、それが叶わなかった東ドイツの人々が西側と同じような消費生活を求める気持ちを否定はできません。

東ベルリンの実相

服部 東ドイツというと、ものすごく閉鎖的で画一的な世界というイメージを抱きます。しかし、芳地さんの本で描かれているのは、様々な人種や国籍の人間が行き交う、むしろコスモポリタンな世界です。これは、留学生の多い大学寮が主たる舞台だからだとは思いますが、もしかしたら、東ベルリンという街自体も、意外に開放的で多様性があったりしたのでしょうか?

芳地 東シベリアの都市、クラスノヤルスク出身のロシア人女子学生が、故郷から東ベルリンに来た当初、あまりのきらびやかさに圧倒されたという話を聞いて、驚いたことをよく覚えています。ぼくの目には東ベルリンがくすんだ色に映っていましたから。東ドイツは旧ソ連東欧諸国のなかでは「経済の優等生」といわれ、とりあえず衣食住に問題はありませんでした。なかでも東ベルリンは政治、経済、文化の中心地として(主に社会主義国からの)留学生が多く、学生寮には、欧州にとどまらず、ベトナム、北朝鮮、キューバ、マダガスカルなどの世界各国の学生もいて、街の風景はモノトーンでしたが、室内に入ると極彩色の世界が広がるみたいな感じでした。

服部 一般的に、1989年11月9日に東ドイツ国民の出国が自由化されたことをもって、「ベルリンの壁が崩壊した」と言われます。それを受け、物理的な存在としてのベルリンの壁も、なし崩し的に破壊・撤去され始めました。ただ、個人的には、出国の自由化と壁の取り壊しは分けて考えるべきなのではないかと、前々から思っていました。芳地さんは、物理的な存在としての壁に、何か思うところなどはありますか。

芳地 ぼくもそう思います。トランプ大統領はアメリカとメキシコの間に壁をつくると言ったりしていますが、ベルリンの壁を取り壊すにしろ、つくるにしろ、それに政治的なセレモニー以上のものは感じられません。誤解を恐れずに言えば、むしろ可視化されている方が、同じ社会にいながら人と人との間に見えない分断があるよりも問題の所在はわかりやすいのではないでしょうか。

服部 以前聞いた話では、芳地さんは当時日記をつけていて、それが本を書く上で大きかったということでした。ただ、ご著書にはあまり当時の写真が載っていませんね。もちろん、30年前には今のように普通の人でも日常的に写真を撮るような文化はありませんでしたけど、ベルリンの壁崩壊や東西ドイツ統一といった歴史的事件に遭遇しながら、自前の写真がないとしたら、惜しいですね。

芳地 モノクロ写真なら実家の押し入れにたくさんあるのですが、データ化しておらず、すみません。カメラが貴重だったせいか、東の人の方が記念写真を撮ることが多かったような気がします。みんな着飾ったりして。

芳地隆之さんの著書2点、『ぼくたちは「革命」のなかにいた ―東ベルリン留学グラフィティ』(朝日新聞社、1990年)、『壁は必要だった ―大国ドイツ三たびの民族主義』(新潮社、1994年)。

分断は克服されたか

服部 東欧諸国の体制転換から30年が経ち、かつて変革のフロントランナーだったポーランド、ハンガリーなどでも、最近は反動的な動きが伝えられます。ただ、東ドイツという国は消滅してしまったので、かつての東ドイツ国民が、今日どのような心持ちで生きているのかが、良く分かりません。旧東ドイツの底上げ、ドイツへの統合は、上手く進んでいるのでしょうか。

芳地 すでに申し上げたとおり、東ドイツはあらゆる機能を首都に集中させていたため、各地方に多様な産業が育っている旧西ドイツのようになるのは難しいのではないかと思います。東西ドイツというかつての政治的な分け方だけでなく、それ以前のプロイセンやバイエルンなど、王国時代の独自の文化などが各州にいまも生きているので、南ドイツや北ドイツなど地域間の融合が統合をより進めるのではないでしょうか。

服部 私は、国情や国民意識を知る手掛かりとして、スポーツ、特にサッカーに着目することが多いのですけど、統一後のドイツのサッカーを見ると、やはり西が圧倒的に優勢で、旧東ドイツのクラブがブンデスリーガ1部に昇格することはなかなかないですね。有名なヘルタ・ベルリンにしても、西ベルリンのチームですし。そうしたなか、2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会では、旧東ドイツ地域で唯一、ライプツィヒが会場になり、東への配慮がなされました。サッカーは、統一ドイツの一体感に、寄与できていますか?

芳地 そのライプツィヒがブンデスリーガでは躍進していますね。今も思い出すのは、1990年のイタリア・ワールドカップです。ドイツ統一の数カ月前ですが、学生寮の東ドイツの学生は西ドイツの応援一色。優勝して大喜びでしたが、どこか無理がある印象でした。その12年後の2002年、日韓ワールドカップで旧東ドイツ・ゲルリッツ出身のミヒャエル・バラックが活躍したときは、東西ドイツチームが融合したのかなと思ったものです。

服部 日本でも、地域的な優劣のイメージというのはあります。代表的なところでは「ダ埼玉」といった言説があり、『翔んで埼玉』なんて漫画・映画まで作られました。しかし、それらはあくまでもシャレや自虐ネタの範囲内であり、本当に蔑んでいるわけではないと思うんですよね。他方、ドイツの場合には数十年にわたる国家分断の歴史があり、もしかしたら、西の東に対する「上から目線」、東の人たちの劣等感には、抜きがたいものがあるのかな、などと想像してしまいます。

芳地 その一方で、2000年代以降に製作された『グッバイ、レーニン!』『善き人のためのソナタ』『東ベルリンから来た女』など、東ドイツを舞台にしたドイツ映画は旧西ドイツの監督によるもので、旧東ドイツ国民の心情に寄り添ったものでした。当事者の方が自分たちの歴史を相対化してみるのは難しいのかもしれません。昨年、日本で公開された『希望の灯り』の監督(トーマス・ステューバー)は東ドイツのライプツィヒ出身の30代。壁を知らない世代があの時代を見直しています。

30年が経って

服部 ここ数年のヨーロッパで発生した大きな問題に、シリア等の難民の流入があり、ドイツは国としては積極受入派でした。東ドイツ地域における特徴的な現象などはありましたか。

芳地 ぼくの友人は積極受入派です。自由の大切さを知るのは西よりも東の人間だと思います。東ドイツの民主化運動から政治家としてのキャリアをスタートさせ、わずか15年で首相にまで上り詰めたアンゲラ・メルケルさんは最たる人でしょう。

服部 さて、11月9日で、ベルリンの壁崩壊から30周年を迎えました。それをめぐる出来事、論調などで、何か気になった点などは?

芳地 「いまも残る東西ドイツの格差」というフレーズが溢れていたことでしょうか。ぼくには国内が分断されつつあるアメリカや東京への一極集中が進む日本に比べれば、ドイツは格差を埋める努力しているように思えます。

服部 さて、確か芳地さんは最初の本のタイトルを、ご自分では『ワルシャワ条約機構の友たちへ』としたかったのだと記憶しています。東ベルリンには西側からの留学生もいたのに、なぜか芳地さんは共産圏や途上国の留学生とばかり付き合っていて、彼らとの対話が著書の骨格を成しているからだろうと思います。留学から二十数年経って、「ワルシャワ条約機構の友たち」との交流は、今でも続いていますか。

芳地 共産圏の友だちが多かったのは彼、彼女らが日本に関心と好意をもってくれたから。SNSのおかげで音信不通だった友人から友だちリクエストがくるなど嬉しい驚きがあります。上述のクラスノヤルスク出身の女子学生はドイツ人のIT企業家と結婚し、自身も経営コンサルタントしてミュンヘンを拠点に活躍しています。当時の友人もこの間、日本に遊びに来ました。ただ、ベルリンの壁崩壊直後、全員が強制的に帰国させられた北朝鮮の学生たちのその後が気がかりです(もちろん北朝鮮はワルシャワ条約機構加盟国ではありませんでしたが)。彼、彼女らがいまどんな生活をし、どんなことを考えているのか。個々人はとても気のいい人たちだったので、いずれどこかで会いたいと思っています。

後編に続く

以上、前編では現地でベルリンの壁崩壊に遭遇した芳地隆之さんにお話をお聞きしました。

芳地さんのお話の中で、改めて考えさせられたのは、旧東欧諸国によって自由で民主的な社会主義が試みられながら、それがソ連の戦車でことごとく潰されてきたという歴史です。いわゆる制限主権論、ブレジネフ・ドクトリンと呼ばれる論理の発動に他なりません。後編では、その延長上で、プーチン現ロシア大統領が壁の崩壊時に東ドイツで働いていたことに着目し、それが作用したと考えられるこの30年の国際政治の逆説について語ってみたいと思います。