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古民家はこんなにカラフルになれる ドイツ人建築デザイナーが蘇らせた家と集落

Breakthrough 突破する力
古民家を再生した自宅「双鶴庵(そうかくあん)」でくつろぐ。自慢のひとつが、昔のままに残した太いはりだ=新潟県十日町市竹所

会社の事務所が入る「まつだいカールベンクスハウス」(右)と旧街道沿いの街並み=新潟県十日町市松代、大室一也撮影

「以前は竹所には魅力がないと思って、集落の名を言うのも恥ずかしかった。隣の集落も全員出て行き、どうしようかと同世代で話していた」。元区長五十嵐富夫(67)は振り返る。来た当初は「豪雪地だからじきにいなくなる」とも言われていたベンクスが、この春から区長をつとめる。

東西冷戦下の東ドイツに育ったベンクスが、竹所に根を下ろすまでには、長い道のりがある。19歳になる1961年8月のある夜、東ベルリンで内装の仕事をしていたベンクスは、東西の境を流れていたシュプレー川に飛び込んだ。まだ東西間の往来は可能だったが、亡命者が相次ぎ、東ドイツ当局が規制を始めていた。「今行かないと大変なことになる」。無我夢中で泳ぎ、西側の川岸にたどり着いた。その年のうちに東西の境に有刺鉄線が張り巡らされ、さらに壁が完成。東側に残された家族とは会えなくなり、のちに壁を乗りこえようとした同級生は銃殺された。

父、柔道、空手 つながった縁

日本との縁は、名前を受け継いだ父カールに始まる。ベルリンでフレスコ画などを修復する仕事をしていた父は、日本美術に深い関心を寄せていた。第2次世界大戦に従軍し、ベンクスが生まれる2カ月ほど前にクリミア半島で戦死した父に会ったことはないが、家に残された浮世絵や細工物を見て、小さなころから日本に興味を持った。母が外で働いていたため、首から家のカギをぶら下げて学校に通う「鍵っ子」だったが、つらかった記憶はない。「学校で1人だけ父親がいないと目立つけど、ほとんどの同級生の父が戦争で死んでいました」

カール・ベンクス

体を動かすのが大好きだったベンクスは12歳から自宅近くの警察署で柔道を習い、西ベルリンに逃れた後も内装の仕事の傍ら道場に通っていた。ある日のこと、テレビで初めて空手を目にして柔道とは違う素早い動きに「かっこいい」と夢中に。道場を探したが見当たらない。日本人が空手を教える道場を見つけてパリへ行き、そこで出会った日本大学空手部OBから「強くなりたかったら日本に来なさい」と誘われる。

思い立ったら行動に移す性格。仏マルセイユから5週間の船旅で神戸に着くと、数千円を握りしめ袋一つを背負って東京へ。大学の空手道場に通いつつ、喫茶店やブティックの内装工事をしたり、傘立てや椅子を作ったりして生計を立てた。そして、日本建築好きのドイツ人向けに、家の中に和風の部屋や茶室を造る仕事をするため、西ドイツ・デュッセルドルフで起業した。

初めて竹所を訪れたのは、ベルリンの壁が崩壊した後の93年の秋のことだ。ドイツ人から「合掌造りのような古民家を探して」との注文を受け、米を買いに行く知人とともに集落を訪ねた。

築百数十年のかやぶき屋根の古民家を見たとたん、胸がときめいた。日本に出張した時の宿や別荘として使えばいい、と東京に帰る途中の車の中で所有者に電話をしていた。価格を聞いて「土地付きで100万円」と言われた時は、「1桁間違っているのでは」と耳を疑った。バブル期の東京では土地は異常な高騰を見せたが、古民家に価値を見いだす人はいなかった。

かやぶき屋根の自宅「双鶴庵」=新潟県十日町市竹所、外山俊樹撮影

即決し、妻クリスティーナ(79)に事後報告すると、雷が落ちた。「私には一言も相談がありませんでしたから」。元航空会社の客室乗務員で、ブエノスアイレス出身。日本の豪雪地での田舎暮らしは想像もしていなかったが、竹所がすぐに気に入り、今では地元の子たちから「ティーナばあちゃん」と慕われている。

現代人の生活に合わせる

デュッセルドルフと日本を行き来しながら自宅を完成させ、住み始めたのは95年のことだ。「カールベンクス アンド アソシエイト」を立ち上げ、古民家再生に本格的に取り組むようになると、次第に仕事の軸は日本に移った。

ベンクス流の古民家再生は、現代の生活に合わせるのが特徴だ。柱やはりなど使える骨組みは再利用しつつ、色や形を大胆に変える。屋根にはドイツ産スレートを用い、外壁に柱とはりに見立てた木材を貼る。寒冷地でも快適に過ごせるように、床暖房を入れ、断熱材の厚さは通常の倍の10センチ。結露しにくいドイツ製ペアガラスを使う。「日本の古民家は住みにくくなったから捨てられた。時代に合わせないと」

自社のデスクで書類を見るカール・ベンクス=新潟県十日町市松代、外山俊樹撮影

最初は仕事は来なかった。近くの古民家が朽ち果てそうなのが惜しくてたまらず、買い手もないまま再生を手がけた。外国人で保証人もおらず、銀行から金を借りるのは難しい。費用はドイツの友人から借りた。「静かなところに住みたかったが、寂しいところは嫌」とミニコンサートなどを開くうち、東京在住の人が話を聞きつけ、買ってくれた。

「もっと人を呼び込みたい」と地域の古民家を次々に再生するベンクスの姿に、住民も動きだす。集落の美しい姿を取り戻そうと、みんなで農機具の残骸や放置されたブルーシートを撤去。すると、集落に見学に来る人が増え、減り続けていた人口が増加に転じた。車で十数分の通り沿いにある元老舗旅館を改装して会社事務所を移転。1階の一部はカフェにして、地元の人や観光客が気軽に集える場にした。十日町市も、ベンクスのデザインで店などを改修すれば補助金を出す事業で後押しした。

スタッフと打ち合わせをするカール・ベンクス=新潟県十日町市松代、外山俊樹撮影

依頼も全国から次々に舞い込むようになった。新潟市の「カーブドッチワイナリー」で、江戸時代の寺を移築して建てたイタリアンレストランは代表作の一つ。欧州の街中にでもありそうな建物を一目見るため、遠くから来る人もいる。

カーブドッチワイナリーのイタリアンレストラン「薪小屋」の内部。奥の暖炉は薪をくべ、直火焼き料理を出せる=新潟市西蒲区、大室一也撮影

そんな実績が積み重なり、2016年度には総務省の「ふるさとづくり大賞」で、夫婦で内閣総理大臣賞を受賞。選考に関わった東京大名誉教授の月尾嘉男(77)は「普通なら古民家を昔通りに戻すが、ベンクスさんは色も形も変える。それが地域にインパクトをもたらし、移住してきた人もいる。なるほどこういう使い方もあるのか、という外国人ならではの視点だ」と評する。

「古い家のない町は想い出の無い人間と同じである」。日本画家・東山魁夷のこの言葉が好きだ。古民家再生の目標を聞かれるたび冗談半分に答えていた「50軒」を、気づけば超えている。今手がける長野、東京などの4軒が完成すれば60。新たなゴールは「100軒」だが、大切なのは「ふるさとの竹所が元気で、これからも残っていくこと」だ。

■Profile

  • 1942 ドイツの首都ベルリンに生まれる。名前は、出征先のクリミア半島で戦死した父にちなむ
  • 1945 ドイツ降伏。やがて東プロイセンの疎開先から、ソ連占領下の東ベルリンに戻る
  • 1961 泳いで西ベルリンに渡る。東西の境に有刺鉄線が張られ、西ベルリンの周囲に壁が建設
  • 1963 西ベルリンからパリへ転居し、空手を始める
  • 1966 仏マルセイユ発の船に乗り、神戸に到着。東京で暮らしながら日本大学空手部の道場に通う
  • 1973 西ドイツ・デュッセルドルフに移り、和風の部屋を造ったり、古民家を移築する仕事を始める
  • 1989 ベルリンの壁崩壊。翌年、東西ドイツが統一した
  • 1993 現在の新潟県十日町市竹所を訪問。気に入った古民家を買い取って改築。2年後に移り住む
  • 1999 竹所にカールベンクス アンド アソシエイト設立
  • 2010 元老舗旅館を再生し、会社事務所を移転。「まつだいカールベンクスハウス」と名付ける
  • 2017 総務省の「ふるさとづくり大賞」(16年度)で、夫婦で内閣総理大臣賞を受賞
  • 2019 竹所の区長に就任

■Memo

「ベルリンの壁」の破片…ベルリンの壁の破片が、「まつだいカールベンクスハウス」1階奥の棚の中に飾られている。1989年11月、東ドイツで出国の自由化が発表されたのをきっかけにベルリン市民らの手によって壊された。ベンクスはたまたま日本人の知人と現地にいて、壁のかけらを拾った。

「まつだいカールベンクスハウス」に飾られているベルリンの壁の破片。落書きの跡とみられる彩色が残っている=新潟県十日町市、外山俊樹撮影

「若大将」に柔道家役で出演…来日後はしばらく、映画のエキストラなどで食いつないだ。加山雄三主演の映画「南太平洋の若大将」(67年)には東京五輪柔道無差別級金メダリスト、「オランダの巨人」ヘーシンクを思わせる外国人柔道家ヘイスティング役で出演。加山のことは知らなかったが、その後、スキー場に招待されたこともあった。

加山雄三(右)主演の映画「南太平洋の若大将」に出演したカール・ベンクス(左)=本人提供