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『僕たちは希望という名の列車に乗った』 分断のベルリンで、国家に抗った高校生

シネマニア・リポート 更新日: 公開日:
インタビューで答えるラース・クラウメ監督=山本壮一郎撮影

第2次大戦後の冷戦期に東西に分断されたベルリンで、人々の行き来なんてありえなかったと思うかもしれない。だが実は1961年の壁建設以前は、検問こそあっても列車で行き交えた。そのとき西側を垣間見た東ドイツの高校生たちが、国家を敵に回して窮地に――。実話にもとづくドイツ映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』(原題: Das schweigende Klassenzimmer/英題: The Silent Revolution)が17日に公開される。当時の高校生のひとりに聞き取りを重ね、映画化したラース・クラウメ監督(46)にインタビューした。(藤えりか)
『僕たちは希望という名の列車に乗った』より © Studiocanal GmbH Julia Terjung

物語は東西ドイツ分断下の1956年、東ドイツの高校生テオ・レムケ(レオナルド・シャイヒャー、26)とクルト・ヴェヒター(トム・グラメンツ、28)が列車で訪れた西ベルリンで、映画館に忍び込む場面から始まる。西側発のニュース映像から、自由やソ連撤退を求めて蜂起した市民が多数死亡した「ハンガリー動乱」を知った2人は、戻って級友たちとともに、ハンガリー市民への2分間の黙祷を授業中に捧げる。反逆行為として当局が調査に乗り出し、東ドイツのトップ大学をめざす生徒たちは、仲間を密告してエリートへの道を進むか、あきらめて未来を閉ざされるかの選択に迫られる。

インタビューで答えるラース・クラウメ監督=山本壮一郎撮影

クラウメ監督は旧西ドイツのフランクフルトで育った。「ベルリンの壁建設以前については、ドイツ人にもあまり知られていない。壁建設があらゆるものに影を落としたがために、この話を含め、壁ができるまでの間に何があったか、あまり知られなくなった」

『僕たちは希望という名の列車に乗った』より © Studiocanal GmbH Julia Terjung

一方で、クラウメ監督が映画完成後に取材を受けながら旧東ドイツを回り、冷戦期を知る年配の人たちにも多く会うと、「同じようなことが大学や学校、職場であった」と言われたという。「多くの場所で似たことが起きていたものの、多くの場合、裏切りとして位置づけられ、制度に刃向かった人たちとして罰せられた。人々はバラバラになり、互いに裏切り合って、話が終わってしまっていた。今回の物語が極めてまれなのは、子どもたちが感じた連帯の力だ」

インタビューで答えるラース・クラウメ監督=山本壮一郎撮影

主役の一人、クルトのモデルは、1939年にベルリンで生まれた故ディートリッヒ・ガルスカ。のちに西ドイツで文学や社会学、地理を学んで高校教師となり、2006年、自らの経験を著作にした。『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』(2016年)で各賞を受賞したクラウメ監督は、著作をベースに本人に聞き取りを重ねて、脚本を書いた。

『僕たちは希望という名の列車に乗った』より © Studiocanal GmbH Julia Terjung

舞台となった旧東ドイツ・シュトルコーを、製鉄の街・旧スターリンシュタット(現アイゼンヒュッテンシュタット)に移したり、人物の名前やキャラクターを脚色したりした以外は、「そのまま。すべては本当に起きたことだと言える」とクラウメ監督。舞台を変えた理由の一つは、すっかり現代的な街となったシュトルコーに比べ、アイゼンヒュッテンシュタットは当時の製鉄所もまだ稼働し、古い街並みも残っていたためだ。映画にも出てくるこの製鉄所は撮影後まもなく一部閉鎖されたという。結果として、旧東ドイツの労働者の街の一端を映像で残すこともできた。

インタビューで答えるラース・クラウメ監督=山本壮一郎撮影

冷戦期を知る世代の役者は東ドイツ出身者で固め、クラウメ監督は彼ら自身の経験にも耳を傾けた。その一人、シュヴァルツ校長役のフロリアン・ルーカス(46)は物語の背景となる教員事情について話してくれて、参考になったという。生徒たちと当局との板ばさみとなるシュヴァルツ校長は、「労働者から校長になり、事態にどう対処していいかわからないという役柄」。ルーカスも学生時代、「生徒の話をどう聞けばいいかわからない教師」に接したことがあるという。ナチスに協力した教員が職を追われる中、東ドイツは労働者層から多くの教員を採用した。「しかも、国全体として資本家や知識人に抗う制度の下にいるから、知識人としての教師もなかなかいなかった」とクラウメ監督は解説する。

インタビューで答えるラース・クラウメ監督=山本壮一郎撮影

ただ、社会主義そのものは1950年代、今想像する以上に大きな理想や希望とともに語られていたはずだ。そのただ中にあって、エリート予備軍の生徒たちが将来をあきらめるか否かの選択を強いられるのは並大抵ではなかっただろう。クラウメ監督は「そうだね」とうなずき、言った。「当時は社会主義によってユートピアが作られる、少なくともその可能性がある、と思われていた。物語の舞台をスターリンシュタットに移したのも、それを考えるのに役立った。1956年のスターリンシュタットと西側とで鉄鋼労働者の暮らしぶりを比べたら、前者の方がよかったことがわかる。労働者にはとても近代的な場所で、浴室の整った住宅があり、学校にも行けた。西側の人たちは、そうした暮らしを夢見た。もちろん、自分の考えを表現する自由がなければ意味がないことだけれども、だからこそベルリンの壁以前の1950年代について映画で見せるのは大事なことだった」

『僕たちは希望という名の列車に乗った』より © Studiocanal GmbH Julia Terjung

当時の若者を演じる若い役者たちには、1950年代後半~60年代前半の東ドイツの映画を見せた。かつては上映が禁じられた作品も含むという。逆に言えば、禁じられるような映画が東ドイツでも作られていたということか。クラウメ監督は言う。「ただ一つの現実があるわけではない。当時も、抗う若者たちがいた。スケートボーダーに会おうとする子どもたちについてのすばらしいドキュメンタリーも東ドイツにはあった。とてもアメリカ的で、西側由来の若者文化はどれも問題になった東ドイツでは嫌われたけどもね」

クラウメ監督によると、ガルスカも若い頃、デニムシャツを着て街を歩いては、誰かに「ここでこんなものを着たらダメだ」と咎められたという。デニムシャツは当時の東ドイツで、アメリカ文化の象徴として「テキサス・シャツ」と呼ばれたという。「彼はすでに東ドイツで抵抗の立場をとっていたんだね」とクラウメ監督は言う。

インタビューで答えるラース・クラウメ監督=山本壮一郎撮影

そうして不自由な社会主義体制への不満から西側へ逃れる人が増え、東側が人材流出にも悩まされる中、銃を伴う監視と有刺鉄線が張りめぐらされたベルリンの壁が1961年にできた。結局、30年前に壁は崩壊し、東ドイツは西ドイツに編入される形で消滅。冷戦は「資本主義陣営の勝利」として位置づけられた。だが、体制に抗うと場を追われたり、仲間を裏切ることをも強いられたりする状況は、何も東側に限ったことではない。東側陣営が得意とした「プロパガンダ」も、どの体制にだってある。

『僕たちは希望という名の列車に乗った』より © Studiocanal GmbH Julia Terjung

そう水を向けると、クラウメ監督は警鐘を込めて語った。「どんな体制も、それをうまく機能させる共同体を成す個人を必要とし、決まりを受け入れる個人を欲する。たとえば資本主義の世界では消費だ。消費しなければよい市民とみなされない。そうしてプロパガンダを必要としてゆく。資本主義社会は、社会主義体制とは語り方が違っているだけだ」

旧東ドイツでは今、反移民感情が吹き荒れ続けている。「ベルリンの壁崩壊という歴史の大転換で、旧東ドイツの人たちは敗北を感じた。彼らは搾取され裏切られたと感じ、経済的に強くなった旧西ドイツに対して、大衆心理として多くが劣等感を抱いた。その不満を移民にぶつけている。自分は一段低いところにいると感じる人たちが、持っているものを失うのがただ怖いと感じている」

インタビューに答えるラース・クラウメ監督と、筆者=山本壮一郎撮影

クラウメ監督はそう語ったうえで、独裁にあまりに慣れ親しんできた人たちの存在が、揺り戻しを呼んでいる、とも説いた。「社会主義は世界的に、もはやあまり魅力的だとは見られなくなったものの、一方で、その独裁的な制度に慣れた人たちがたくさんいる状態となっている。だから世界中で、右派や国粋主義への後退のようなことが起きている。私も多くの政治家や世界の人たちと同様、とりわけなぜ欧州でナショナリスト的な考え方への後退が起きているのかと苛立ちを覚えるが、かつての東ドイツには存在した。西ドイツにだって同じようなことはあったわけだ」

『僕たちは希望という名の列車に乗った』より © Studiocanal GmbH Julia Terjung

だからこそ、この映画をいま世に出す意義がある、とクラウメ監督。「この映画は、独裁との対立や表現の自由、連帯という普遍的なテーマを描いているが、歴史的な背景を踏まえると理解しやすくなるし、観客にも考えてもらいやすくなる」

インタビューで答えるラース・クラウメ監督=山本壮一郎撮影

実はクラウメ監督以前にも、ガルスカの原作をもとに映画化を試みた脚本家がいたが、完成には至らなかった。結果、ガルスカは映画化を長く心待ちにした形となった。クラウメ監督は映画を仕上げた後、病が重くなっていたガルスカのため、彼の自宅の居間にプロジェクターを持ち込み、上映会を開いたという。「一緒に鑑賞したら、彼はとてもうれしそうで、非常に気に入ってくれた。私の人生で最も大事な、史上最良の上映会となったよ」。今作は2018年2月、ベルリン映画祭で世界に初披露。ガルスカはこれを見届けるかのようにその約2カ月後、生涯を終えた。