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末期がんになって気づいたことがある「余命1カ月」の男性が遺した言葉…症状変わる中

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息を引き取る4日前の8月28日、立つのもやっとの状態の中、「訴えたいことがある」と言ってインタビューに答えた田端健太郎さんの笑顔が忘れられない=山本大輔撮影

「治らない人のための情報」がない

東京で医療機器関係の仕事をしている田端健太郎さん(46)。8月27日、医師から「余命1カ月」と告げられた。約1年に及ぶ腎臓がんとの闘病生活の末、すでに緩和ケアに移行し自宅療養をしていた。余命が短いことは感覚的に分かっていた。取材を受け入れたのは翌28日。それには理由があった。

「残り1カ月となると、みんなそれを口にするのもためらう。だから情報がない。僕自身、どう受け止めたらいいのか知りたくて調べたけど全然ない。あのね、ここが伝えたいポイントだと思っているんだけど、治らないがんと治るがんがある。どんなに医療が発達しても治らない。治る人ばかり脚光を浴びるけど、治らない人もいるのです」

「タバケン」の愛称で親しまれる田端さんの腎臓に腫瘍が見つかったのは、昨年の夏。7月24日に突然、血尿が出て、数日後に発熱したため病院で検査を受けた結果の発覚だった。すでにステージ4。リンパにも転移していた。

この日、フェイスブックで自ら報告をしている。

――えー、みなさまにご報告です。腎臓癌になってしまいました。それもステージⅣ! かなり分の悪い戦いとなりそうですが、最高にチャレンジングな夏になりそうです。秋には、みなさんと美味しいお酒が酌み交わせるように頑張ってみますね~!

この日から壮絶な闘病生活が始まった。しかし、その様子をフェイスブックにつづり続ける田端さんの書き込み内容は常に明るく、すぐに治ってしまうのではないかと読んだ人に思わせるほど、気力に満ちあふれていた。

中学校の同級生で、いまもフットサル仲間の有田一義さん(46)が言う。

「熱い男。フットサルをやっていて、どうにも届かないボールをオーバーヘッドキックしようとする。気持ちで体が動いちゃうから何回もけがした。頼りがいがあって、正義感が強い。同級生の中で一番元気だった」

同じく同級生でフットサル仲間の早川幸志さん(47)は、「とにかく優しい人。中学校のサッカーの試合でファウルをした同級生が、試合後に相手に詰め寄られたとき、タバケンが助けに入った。『俺の友達なんだよ』と言ってね。友達思いで熱い人。多趣味だし、なんでも熱中できる強い男」。

自宅にジムをつくってトレーニングするほど筋骨隆々で、ハーレーを乗り回す。サックスなどの楽器も演奏するし、モトクロスのバイクにも挑戦する。スキーにフットサルに、なんでもやってしまうチャレンジャー。

男くさいけれど、それでいて心根は優しく、世話好き。誰もが共有する「タバケン」の人間像だ。自身もそうありたいと思っていたからこそ、フェイスブックではわざと楽観的な内容を書き込んでいたと、田端さんは明かす。

無類のバイク好きだった田端さん。自宅には、ハーレーのロゴを飾った専用の車庫まで作った=本人提供

「自分のイメージがあるから、やせ我慢していた。僕のアイデンティティーを失いたくないっていうのが強いかな。それを保つことで自分自身を奮い立たせていた。医学的にはダメだけど、気持ちでなんとかできるんじゃないかと思っていた」

だが病状が進むにつれ、体が伝えてくるメッセージは異なり、現実と希望に隔たりを感じるようになる。

「通常はスポーツしたり、トレーニングしたりすると、寝て起きたら少し疲れも緩和されるでしょ。でも、今は調子が悪くなって寝ても、起きたらもっと調子が悪くなっている。現実はちゃんと直視していたよ」

抗がん剤が効果なし、そして覚悟

昨年9月から12月にかけて、地元の病院で4回にわたる抗がん剤投与を受けた。リンパに広がったがん細胞を減退させてから、腫瘍(しゅよう)のある腎臓を全摘出する手術に向けての治療だった。

その効果が表れて、手術の日程も決まった時、念のために抗がん剤をもう一度投与することになった。その際に撮ったCT映像で、実はがんが弱まっていないことが判明。手術は中止となった。

効果がないなら体に悪いだけの毒だから、と抗がん剤治療を断り、放射線治療に変えた。

その間、自分でも生きる道を探り、「オプジーボ」のライバル薬として知られるがん免疫治療薬「キイトルーダ」の投与を、都内の国立がん研究センターで受けることにした。いい薬の調合をしてくれる先生がいると聞いて、福岡県のクリニックにも行った。

今年6月、やれることはすべてやったうえで受けたCT検査。ガンは弱まるどころか、肝臓などに転移しているのがわかった。緩和ケアへの移行を医師から打診された。根本治療ではなく、痛みを抑えながら余生を過ごすという選択だった。

2019年2月、放射線治療を始めたころの田端健太郎さん。「これで完治は期待できないので痛みの緩和と進行を食い止めるのが目的です」と自身のフェイスブックで説明していた=本人提供

「やっぱり気持ちだけじゃどうしようもできない。あらがえないものはあるなって思った。元気に闘う強い姿を周囲には頑張って見せてきたけど、最期を迎える覚悟を決めました、というのも僕のアイデンティティー。そう思えるようになった」

「腎臓だけだったら……。でも肝臓にきちゃったから。やせ我慢は終わり。奇跡でもない限り治らない。現実を初めて受け入れたと言えるのかもしれない。これが運命だと思った。うん。そう運命。だから、それを受け入れて、ちゃんと旅立つ準備をして、最期は笑って死にたいな」

ホスピスへの入所を断り、在宅ケアにこだわった。同時に、死を迎えるための気持ちの持ちよう、準備などに必要な情報を探し始めた。情報過多のIT時代にあって、生きることを前提に闘病生活をしていた時にはあふれていた情報が、死を前提としたとたん、全く見つからない。

「そうなったがん患者は、自分で頑張らなきゃ、みたいな風潮がある。なんとなくそう思った」

がん治療も高額で、誰でも手が出せるものではない。治療法があるのに保険適用外のものもある。がん患者が自分の意思で自由に治療の選択をできる環境は整っていないと感じた。この点も、世間に訴えたいことの一つだ。

2019年2月、抗がん剤治療に区切りをつけ、職場に復帰した田端健太郎さん。体調が急激に悪化する中、亡くなる半月前の8月15日まで出勤していた=本人提供

国立がん研究センターの統計によると、新たにがんと診断される罹患数(予測)は2018年で約101万3600人。うち死亡数(同)は38万人近くだ。2人に1人が生涯のうちにかかるとされるがんが原因で、死と向きあわなければいけない局面を迎える可能性は誰にでもある。

それなのに情報が不足し、治療の環境も整っていないという田端さんの訴えは、多くのがん患者やその家族に共通する問題提起だ。

「でも、意外と自分がいなくなることについて穏やかなんです。ちゃんと準備をして、あとのことを安心できる状態で亡くなりたい。その心配がないように色々と片付ける終活をすることで、心が落ち着いていられたのかもしれない」

今年8月、梅雨明けの猛暑もあって、体調が急激に悪化した。会社には出勤していたし、好きなバイクにも乗ってもいたが、思い通りに動けなくなった。足元がふらつき、立っているだけでめまいが激しい。

「体が弱っているのを実感した。ちょっとだけ残っていた希望のウェートが減っていった」

娘同席する中、告げられた「余命1カ月」

痛みも激しくなり、医者のすすめで、モルヒネを使い始めた。「お父さんは不死身だから大丈夫だよ」と、励まし続けてくれる一人娘(13)が同席する中で、訪問診察に来た医者から告げられたのが、「余命1カ月」だった。

宣告を受けた夜、田端さんは娘と二人っきりで話した。

「こういう状況になったね」

娘は深刻な表情で「うん。分かっている」。

周囲から見ても仲の良い親子だった。その娘と交わす言葉の一つ一つが最後になるかもしれない。そんな思いがこみ上げた。

「なんていうか、甘えん坊のところがあるから、そうしたところを見直す、いい意味での試練になると思っている。乗り越えてくれる。立ち直れる。だって、僕の娘だから。芯はできていると思っているから」

「孫が見たいというのはある。でも、悔いのないように愛情を注いできた。娘の花嫁姿が見たいという父親もいるだろうけど、僕は他の男にとられるみたいで嫌だもん。反抗期もまだだし、仲が良い今のままで終われるのは、理想系なのかもしれない」

お互いの時間を大切にしたいと離婚した元妻にも、感謝の気持ちでいっぱいだ。「元奥さんという言い方になっちゃうけど、すごいサポートをしてくれて、毎日来てくれている。仕事も週3回は休んできてくれているから」

元妻と妹の協力を得て、相続や遺産、葬儀などについてはすでに話をつけた。仕事も引き継ぎを全て終え、「あとは静かに逝けるといいな」と思える期間に入った。全ての準備が整ったら、心は安定したという。

「目下の心配は、どのくらいの人が葬式に来てくれるのかなってことくらい。お別れ会みたいのをやった時、僕のことを思い出してくれるかなってこと」

言い残したことはないかと問われると、田端さんはこう答えた。

「やっぱり、さよならは悲しいな。でも、かわいそうじゃない。好きなように人生を送れたから幸せだった。だから、かわいそうではないって、みんなが思ってくれたらうれしいな」

取材の翌日、田端さんの容体は急変した。

9月1日朝、家族に見守られながら息を引き取った。「余命1カ月」宣告から5日後。

家族によると、苦しまずに穏やかな最期だった。表情は安らかで、少し笑っているようだった。完全に弱って入院を余儀なくされる前に、誰もが知る「強いタバケン」のまま、自分で人生の幕を下ろしたかのように見えたという。