■一生ついて回る、あるイメージ
「帰国子女」という言葉を文部省(現・文部科学省)が使い始めたのは、1960年代からだという。もう半世紀も前のことだが、「帰国子女」というだけで、いまだに一定のイメージがつきまとうようでもある。
文部科学省によれば、近年の帰国子女の数は、毎年1万人あまり。すでに大人になっている人を含めると、数十万人という規模になるだろう。
ではそのイメージとはどういうものか。2017年に出版された「〈帰国子女〉という日本人」(彩流社)には、「〈帰国子女〉の特徴は『日本文化』に特有な『人間関係』への気づかいに欠けている人たちであるという共通認識があるようです」とある。簡単にいえば、回りからは「空気が読めない」とみなされることが多いということのようである。「ほんのわずかばかり『優秀だけど(それゆえに)腹立たしい人』というニュアンスも感じられます」とも記されている。
著者の品川亮氏は、南米ペルーの日本人学校に通った帰国子女である。品川氏は、帰国子女といっても英語圏から帰国した人ばかりでもなければ、現地校ではなく日本人学校で育った人もおり、さらに何歳から何歳まで海外で過ごしたかによって言語能力に決定的な差異をもたらすと指摘。「一辺倒なイメージよりもう少しだけこまやかな理解を持っていたほう」が、社会が帰国子女を活用しやすく、帰国子女も「居場所」を見つけやすい、という問題提起をしている。
品川氏の著書からさかのぼること14年、2003年に発行された船橋洋一氏の「日本の志」(新潮社)の「帰国子女」を扱った章には、こんな記述がある。
「ひところは、"サード・カルチャー・キッズ"などと呼ばれ、日本の閉鎖性と画一性を変革する突破口、起爆剤として期待もされた。いまもまた、グローバリゼーションのうねりの中で、彼らの表現力と発言力が期待されている。にもかかわらず、帰国子女は、日本の社会ではそれが一生、属性としてついて回るような特殊日本的な存在であり続けているかのようである。帰国子女の居場所の危うさは、実は日本の社会における『個』の居場所の希薄さと同根であるに違いない」
「日本の志」は、船橋氏が戦後の日本を考える上で重要だと思われる本をピックアップして解説を加える形式(元は月刊誌「フォーサイト」の連載)である。「帰国子女」を考えるこの章でピックアップされている本の発行は、さらに17年さかのぼる。
1986年発行の天谷きみこ氏の「とんでったブーメラン」(くもん出版)である。天谷氏は、「日本町人国家論」などの著書で知られ、資源エネルギー庁長官、通商産業審議官も務めた天谷直弘氏(1925-94)の妻である。アマゾンで取り寄せて読んでみると、1960年代のオーストラリアでの子育てや、日本に帰ってからの苦労が生き生きと描かれており興味深い。驚くのは、数々のエピソードが今読んでも、半世紀前のものと思えない鮮度を保っていることである。
■海外より日本で感じるカルチャーショック
「日本の志」には、1990年発行の「帰国子女」(中公新書)という本も紹介されている。著者の宮智宗七氏は、日経新聞の論説副主幹やテレビ東京解説委員長などを務めた人物。東京のボランティア団体「帰国子女の会 フレンズ」などの協力を得て、アンケートを実施。日本人が外国で暮らし始めた時に感じる「カルチャーショック」よりも、日本に戻ってきたときの帰国生やその家族の「違和感や疎外感=逆カルチャーショック」の方が大きいと感じる人が多いといった結果を得ている。「逆カルチャーショック」の背景には、日本社会の「異質なるものへの非寛容性」があると宮智氏は記している。
「子供たちが感じる被差別感の多くが、中学校の英語の授業のときに発生した」など、この本で紹介されているエピソード、いじめなどの事例は今でも耳にする。部活の指導方法にも海外と日本で大きな違いがある場合もあり、体罰まではいかなくとも、先生が「怒鳴る」などの指導法に耐えきれず、部活をやめてしまうケースも聞く。
同団体は「フレンズ 帰国生 母の会」と改称し、現在も帰国生やその保護者の相談に乗るなどの支援活動を続けている。代表の池谷明子さんは「外国文化や外国語に早くから触れる長所を生かせる帰国生もいるが、日本語の不十分さや慣習の違いなどから、悩んでしまう子も少なくない」と話す。
一方、宮智氏の著書とほぼ同時期の1992年、イギリス人の社会人類学者であるロジャー・グッドマン氏は「帰国子女 新しい特権層の出現」(岩波書店)という本を出版している。グッドマン氏は帰国子女が悩んでいる問題のいくつかは「文化的境界を越えたことから生じた普遍的なもの」であり、誇張されているとみる。むしろ、有力大学が帰国子女枠を設けるなど帰国子女は厚遇され、特権的になっていると分析した。
文部科学省には、かつては帰国子女の適応などに専門的に取り組む係があったが、今は、外国人生徒の受け入れを進めるセクションが、帰国子女についてもフォローするという体制になっている。担当者は「帰国生受け入れ校にヒアリングすると、帰国生の中には、日本的な『空気を読む』環境を察知してすぐに適応できる帰国生もいる一方で、なかなか慣れない生徒もいると聞く」と話す。いじめの件数について全体の統計はあるが、外国人や帰国生に属性を限った統計はないため、過去に比べて増えているか減っているかは把握できていないという。
■「出る杭は打たれる」との葛藤を超えて
さて、日本で初めて帰国子女の受け入れを主目的として設立された高校は、国際基督教大学(ICU)高等学校である。1978年の開校なので、もう40年以上がたつ。
在校生の数は約740人で、うち帰国生が約7割を占める。入学前の生徒の在留国・地域は約50カ国で、学校自体が「多文化社会」となっている。募集のコンセプト、入試方法、帰国生3分の2、一般生3分の1という比率や定員は、40年間、ほとんど変わっていない。
校則は非常に緩い。「下駄とガムはダメ」というぐらい。制服はあるが普段の着用は自由で、髪を染めても構わない。
高校2年の生徒4人に話を聞いた。唐沢諒子さんは、チアリーディング部のキャプテン。マレーシアに3年住んだあと、長野で小学校・中学校時代を過ごし、ICU高校に入った。「高校に入るまでは、こんなことを言うと自慢に聞こえるかなあと考えてしまって、自分の経験をうまく話すことができなかった。ICUでは自分の経験を話しやすいし、相手の経験も聞きやすい」という。
齋藤紘一さんは、野球部。アメリカで9年過ごし、小学校5年で帰国、東京の小学校・中学校で通ったあとICU高校に入った。「中学時代、目立つのがいやで、わざと日本語の発音のように英語を発音していたら、英語力が低下した。アメリカの友人と久しぶりにビデオ通話したら、『お前英語下手になったな』と言われてショックだった」と言う。「日本は出る杭は打たれる雰囲気があり引っ込み思案だったが、今は何をやっても、(同級生らに)否定されないのが嬉しい」
大塚あかりさんは、タイで生まれて中学3年までタイで過ごした。小学校5年までは、タイの現地校で、主にタイ語で授業を受け、そのあとインターナショナルスクールに転校した。タイでは学校の夏休みが長い。夏は日本に帰ってきて、日本の学校に通ったりしたが、英語があまりうまくなかった時期に、「英語話せるでしょ」と言われたのがプレッシャーで、日本の学校に行きたくなくなったという。日本で驚いたのが、満員電車。みんなが急いでいる感じで、自分しか見えていない感じがこわいという。
生後3カ月でイギリスに渡り中学2年に日本に戻ってきた細野日向さんも、日本人の電車通勤やふだんの生活態度に驚いたという。「電車でも携帯を見ているだけで、回りの人とかかわろうとする気持ちが感じられない。本当に『おもてなしの国』なのだろうか」と疑問を持ったという。東京の中学では、「英語で勝負した」という。先生も知らないような単語を使ってスピーチをしても受け入れられた。「『中学は最低だった』という帰国生の子もいるので、自分は恵まれていた」という。
細野さんのように学校に受け入れてもらえたケースもあるので一般化はできないが、唐沢さんや齋藤さんのように日本の学校に溶け込むために「自分を抑えた」話を聞くと、半世紀前の風景である「とんでったブーメラン」の中の記述を思い出す。天谷氏の娘は、日本に帰国後、オーストラリアでの学校と同様に積極的に手を挙げて発言していたが、クラスでは煙たがられ、敬遠された。
天谷氏はこう記す。「集団生活の中の協調性とは、自分の意見があっても他人の意見と同調させることなのだと早合点させられている日本の子供たちは、独創的な意見を邪魔にする。そして、お互いの顔色をうかがいながら事を決める。(中略)そういう中では独創性が育たないばかりか、他人の顔色に支配されない人間は、つまはじきの憂き目を見ることになる」
娘は「日本の学校に入って何となく居心地が悪かった。なぜなら、生徒間に目に見えない相互監視体制が敷かれているみたいだったからよ」と話し、息子は「日本の集団の中では、表面だけでも同調していなければいけないのさ」と同意したという。
筆者は、日本の大学などで講義をすることもあるが、いつも不思議なのは、大教室で大人数相手に話すと、講義の終わりに質問時間を取っても、手がほとんど上がらないケースが多いことである。(少人数のゼミ方式だと、結構質問が出る)。これは筆者が学生だった30数年前も今も、変わらない印象だ。だが、幼稚園などを見学させてもらうと、数十人の園児がいても、先生が質問すれば、我先に「はい」「はい」と元気よく手を挙げる子が多い。とすれば、日本人が生まれつきシャイであるわけではなさそうだ。小学生ぐらいから、だんだんと「他人にどう見られるか」や「その場の空気」を気にするようになるのだろうか。いったい「空気」とは何なのだろう。この原稿を書きつつ「空気の研究」(山本七平著、文春文庫)を再読してみたりもしたが、あまりに大きなテーマなので稿を改めたい。
■「変な人」が、褒め言葉
意外だったのは、ICU高校の4人の生徒が「(帰国子女枠ではなく一般受験で入学する)一般生は、変な人が多い」と口をそろえていったこと。ここでは、「変な人」という言葉が、ポジティブな、良い意味で使われている。「自己主張する人が多い」「ネイティブの発音をまねて英語の会話に入ろうとしてくる」「帰国生よりプレゼンが上手いし、努力家が多い」。「(一般生が少数派の)ICUを選んでいること自体で変でしょ(笑)」
「変わっているとか、違っているということが、ここでは、全くマイナスにならない」。4人は口々にうれしそうに話した。
同校副校長で、帰国生徒教育センター長の中嶌裕一氏に、同校の目指していることや「グローバル人材の育成」について聞いてみた。
「グローバル人材という言葉には、抵抗感を持っている」と話す。自分たちが育てている生徒が「材」という呼ばれ方をすることへの抵抗感だという。中嶌氏は、社会科の教師として政治経済や倫理を高校生に教えてきた。戦後の「公民教育」とは、主権者を育てることに主眼を置いていたはずで、「グローバル人材」ではなく、「グローバル市民」という言葉に「市民権」を与えてほしいと願っている。
帰国子女を受け入れる中学・高校は今や多数あるが、帰国生を募集する理由として、「学校の活性化のため」と説明する学校もある。これだと、たしかに、帰国生は学校の便益のための「道具」「材」のようにも見えかねない。帰国子女に対して、「学校でリーダーシップを取ってほしい」「英語力の強さ」といったことを期待するケースもある。だが、前述の品川氏の著書にあるように、帰国生もどこでどのように育ったかによってさまざまであり、英語圏で育っていない帰国生はいらないのか、となってしまう。
「帰国生の多くは、親の都合で、小さいときにポンと海外に連れていかれ、全く言葉の通じない世界で必死になっていろいろなことを考えた子供たち。成長する時期には安心できる場所が必要だ」と中嶌氏は話す。「生徒一人一人に歴史や物語がある。その経歴や特性を受け入れ、大切にする。それぞれが自分らしくいられるようにする」。それが、ICU高校のモットーなのだという。
■グローバル教育=英語、自己主張にあらず
1980年、西日本で最も早く開校した「帰国子女受け入れ主目的校」は、京都府にある同志社国際高等学校である。8年後に、同志社国際中学校が設立され、中高一貫教育となった。
京都、奈良、大阪にまたがる「けいはんな学研都市」にある同志社国際中高には、50カ国近くからの帰国生を含む約1250人が学ぶ。やはり、3分の2が帰国生で、3分の1が一般生である。校則は緩く、制服もない。取材に応じてくれた女子中学生はピアスをしている。
高校2年の辻林芽宮さんは、生後3カ月で米国に渡り、14年過ごして帰国。大阪府内の中高一貫校に入った。帰国子女は歓迎と言われたが、そこではカルチャーショックの連続だったという。「みんな同じでないといけない。先生に対して、異議を唱えたらアウトだし、アメリカと同じように授業中にたくさん手を挙げていたら、変な目でみられた」と話す。
英語の授業でも苦労した。「アクセントの置き方が教科書と違うと英語の先生に指導されたが、納得できなかった」。そういって、発音がおかしいと指摘された英単語を実際に発音してくれたが、ネイティブの自然な発音にしか聞こえなかった。
高校から同志社国際に入学し、「ここは自由に発言できる」と一気に気持ちが楽になったという。大学は再び米国に行きたいと考えている。
やはり高校2年の小島知紘さんは、日本で育った一般生。英語を得意科目にしたいと思って、同志社国際中学を受験した。アメリカンフットボール部でクオーターバックを務めていたが靱帯断裂の大けがを負い退部、気持ちを切り替えて勉強に励む。「英語も上達はしていると思うが、それ以上に、ここでは異文化を学べる環境。クラスメートでも、ご飯のマナーなども全く違うし、意見が違っているのが当たり前」と話す。将来は、海外に出て仕事をするのが夢だ。
ICU高校と同様に、価値観の多様性を認め合うことが同志社国際の学校文化の基本になっているようだ。
戸田光宣校長は、同志社国際高校が設立されて4年目から教え始めた。最初は驚きの連続だったという。中東から戻ってきた生徒が「なぜ(学校に)置いてある傘を持ってかえってはいけないのか」と話したこともある。学校で花札で遊んでいた生徒もいる。注意すると「なぜダメなのか」と聞かれた。多文化の中で、価値観を根本から揺さぶられる経験をする。教師も生徒と一緒に成長してきたのが同志社国際なのだという。
アドミッションズセンター主任の春日清彦教諭も、同校に30年以上在籍するベテラン教諭である。古典を教える先生だが、帰国子女相手の授業の時には、拒否反応が起きないよう、1000年前の文化や生活習慣を具体的に示すような授業から入るという。
「グローバル教育」をどう考えるか聞いてみると、「英語が堪能で自己主張ができる人を育てることが、グローバル教育だとは思わない。『みんなが違う』と認めた上で、『でも』と言えて、オーガナイズ、調整できる人間が、本当の意味でグローバルなのだと思う」と春日氏は話した。
■「帰国子女受け入れ校、なくなることが究極の願い」
ICU高校も同志社国際高校も、実は、この連載でも取りあげてきた「バカロレア教育」の導入を真剣に検討した。「考える力」を養成するIB教育について評価しつつ、最終的には断念している。
コストの面、系列の大学がすでに存在するという点などもあるが、断念の大きな理由は、両校とも帰国子女がマジョリティーの学校であることが関係しているようだ。帰国子女は日本語の能力も含めて千差万別で、細やかなクラス分けなども必要だ。一方で、IB教育となると、教師の負担も大きく教師の確保も大変だが、生徒のほうも予習や復習含め、膨大な時間を使うことになる。
「大学に進学すれば大人。それまでは帰国生の風よけになる」(春日教諭)「IBを導入すると、もう一つ別建ての学校を作るぐらいになる。帰国子女受け入れという役割が十分に果たせなくなるのではないか」(中嶌副校長)との見方も聞き、生徒の話も聞くと、両校は今も日本の学校に適応しにくかった生徒の「一時的な避難所」の側面を持ち続けていることに気がつく。海外と日本の文化ギャップの中でとまどう帰国生を一般生と混じり合わせながら育て直していく機能なのだろう。もちろん、すぐに日本に溶け込めた帰国生も、両校ともに相当数いるだろうけれど。
中嶌副校長は「ICU高校のような学校がいらなくなることが究極の願いだ」と話す。ICU高校の教育理念は「平和」「人権」「キリスト教」。その理念は永続的に持ち続けるが、「帰国子女受け入れ主目的校」の看板は、いつかおろす日が来てもかまわないという。日本中の学校で、彼らが自然に過ごせるようになるならば……。ただ、その時期はまだまだ見えていない。「互いの学校説明会を聞くと、同志社国際とは本当に兄弟分だなと思う。帰国生に寄り添うと、結局こうなる」
同志社国際の教育理念は「キリスト教主義」「自由主義」「国際主義」。春日教諭も「ICU高校と直接の交流があるわけではないが、お互いにいいね、と思える関係。向いている方向、目指している方向が同じだと感じている」と話す。
天谷氏の娘が半世紀前に感じた「生徒間の目に見えない相互監視体制」。宮智氏が30年前に書いた「異質なるものへの非寛容性」、船橋氏が10数年前に記した「『個』の居場所の希薄さ」。
それは、日本の学校に特殊な世界ではなく、日本社会全体の課題であり、むしろ大人の世界が子供の世界に反映されているとみるべきであろう。グッドマン氏が分析したように「帰国子女」は恵まれている面もあるが、なお、「本当の自分」をおさえつけながら回りと協調することを演じなければならない生徒も少なくはないだろう。
「帰国子女」は「異端視」される一例であって、ほかにも「非寛容性」は、外国人だったり、障害者だったり、ずっと日本で育っていても個性的な生徒など、さまざまな対象に向けられているケースがある。「大人の世界」の「非寛容」が変わらない限り、「中高生の世界」も変わらない。「それぞれが自分らしくいられる社会」はまだ遠い先なのだろうか。
取材していて、希望を感じることもある。昨年来、数回、東京の千代田区立麹町中学校を訪ね、工藤勇一校長や生徒たちに話を聞いている。この学校には、宿題も定期テストもない。クラス担任は置かない「全員担任制」。学校の目的は「社会の中でよりよく生きていけるようにする」と明確だ。自由・自律を重視する教育である。
工藤氏は、学校現場で強調されがちな「協調性」や「忍耐」という言葉が好きではない。「自律」の精神が奪われることを懸念しているからだ。
「『心を一つに』と思わない。心はみんな違っていいと思います」。心の中で、人を差別してしまう感情はなくせないかもしれない。だが、行動で人を差別しないことはできる。「行動こそが大切だ」と強調する。
多数決の論理とともに少数意見を尊重するのが民主主義の根本だ。そう信じる工藤氏は、学校でも「異質な人や考え」を排除しないことを心がける。「固定担任制の廃止で、生徒が、合わない担任に縛られなくなった。帰国生も違和感なく過ごせるようにさらに努力したい」と話す。
「みんな違っていい」というのは、ICU高校、同志社国際だけでなく、公立の麴町中でも、キーワードになっている。その麴町中に、全国から教育関係者が見学に押し寄せ、工藤氏の著書は8万部を超えるベストセラーになっている。
その現象自体が、日本の学校文化にもっと多様性を埋め込まなければならないという、多くの教育関係者の危機感の表れなのではないか。
帰国生に限らず「異端」を包容し、生かしていく日本に向けて、学校が変わっていってほしいと願う。
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この原稿は、2019年5月11日付朝日新聞本紙コラム「多事奏論」に大幅に加筆しました。