異なる言葉への翻訳は、本当に難しい。新聞社に勤務したころ、合計で7年半をアメリカで過ごした。取材やインタビューの英語を日本語の記事にするときに、うまい訳語がみつからず、よくデスクでうなっていた記憶がある。
人工知能(AI)による翻訳もだんだん精度が上がっているとはいえ、翻訳には、単に言葉の問題ではなくその国の文化や社会、宗教などの背景への理解が必要になってくる。
日本語と英語の語彙が「一対一対応」になっていないのは辞書をめくればわかることではあるが、その辞書を調べても、良い訳語がみつからないこともままある。
■「一般教書演説」英語では?
そもそも日本語として定着している訳語が、おかしいのではないか、と思うこともある。たとえば、アメリカ大統領が年に一度、連邦議会両院の議員に向けて行うState of Union Addressは、世界的にも大きな注目を集めるイベントだ。
これは「一般教書演説」と日本語に訳されているが、State of Unionにおける「State」は「状態」という意味で、直訳すれば「アメリカ合衆国の現状についての演説(address)」ということになる。「一般教書」という語感とはかなり違う。
さらにいえば、アメリカ合衆国(United States of America)における「State」のほうは「州」の意味なので、「合衆国」ではなく、「アメリカ合州国」とすべきところである。
しかし、筆者が「合州国」と記事に書いたとしても、確実にデスクや校閲担当の指摘を受け、修正された上で世の中に出る。もはや定着してしまった訳語は、なかなか変えられないのである。
■クリティカル=否定、ではない
メディアリテラシーの基本ともいえるクリティカルシンキング(critical thinking)も、訳され方がおかしくて、日本で誤解を受けている例なのではないだろうか。
手元にある電子辞書でcriticalをひいてみると、下記のような訳語が出てくる。
1、a,「批評の」「評論の」「批評的な」「批評家たちの評価の」「批評(鑑識)眼のある」「異なる読みや学問的修正を加えた」
b, 「批判的な」「酷評する」「難癖をつける」
2、a. 「危機の」「きわどい」「重大な」「決定的な」 b. 「非常時に不可欠な」、「緊要な」、「戦争遂行に不可欠な」 リーダーズ英和辞典から(一部省略)
クリティカルシンキングの定訳である「批判的思考」に使われている「批判的な」という訳語は確かにある。実際の会話や文章で「批判的」という意味でcriticalが使われることもある。
しかし、日本語で「批判」というと、相手の言うことを否定したり、非難したりすることも含むニュアンスになってしまう。
critical thinkingという言葉で使われているcriticalは、多様な視点を持つという含意があることから、むしろ「批評(鑑識)眼のある」や「異なる読みや学問的修正を加えた」の方が近い感じがする。
アメリカ人の友人たちにも聞いてみた。やはり、critical thinkingといった場合、ネガティブな意味は乏しく、constructive(建設的)な意味があるという意見が複数あった。「critical thinkingとは、constructive skepticism(建設的な懐疑)というような態度ではないか」という友人もいて、なるほどと思ったものである。
日本語が理解できるアメリカ人に聞いても、英語がネイティブ並みに上手な日本人に聞いても、「批判的」という訳語は当たっていないという答えが多い。
そもそも、critical の語源は、ギリシャ語のkritikosが語源であるといわれる。kritikosは、「見分ける・判断する」といった意味だとされる。「クリティカルシンキングの養成」を大学教育の柱の一つにしている国際基督教大学(ICU)の生駒夏美教授は、「自ら考えた結果、否定するだけでなく肯定することもクリティカルシンキング」だという。
また、日本におけるクリティカルシンキングの第一人者で、海外の研究にも詳しい楠見孝・京大教授は、クリティカルシンキングをこう定義する。
①自分の思考過程を意識的に吟味する内省的(リフレクティブ)で熟慮的な思考
②証拠に基づく論理的で偏りのない思考
③よりよい思考を行うために、目標や文脈に応じて実行される目標思考的な思考 『メディアリテラシー 吟味思考(クリティカルシンキング)を育む』197ページ
このような専門家の意見を聴くと、ますます「クリティカルシンキング」を「批判的思考」と訳すことへの違和感が強まった。
いつごろ「批判的思考」という訳語が定着したのか。はっきりしないが、楠見教授によれば、1950年代にはすでに「批判的思考」という訳語が使われていたという。
■下村健一さんとの会話
一方で筆者は、これまでさまざまな学校現場を取材する中で、「同調圧力」が強すぎることについて問題意識を持ってきた。
いわゆる「空気」を読む生徒が多すぎるのは、子供たちの責任ではなく、大人の世界の反映でもあろう。ただ、人によって意見が違うのは当然であり、異なる意見を尊重しつつ、意見をたたかわせる風潮が、学校教育の場で広がってほしいと願ってきた。
千代田区立麹町中学校の改革で全国的に知られる工藤勇一校長(現・横浜創英中学・高等学校校長)を取材したことがある。その際に特に印象に残ったのは、「心を一つに、という言葉が好きではない」という言葉だった。
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「こうした言葉は美しいが、日本の多様性を阻む要因にもなっている」。工藤さんはそう話していた。――何かをやろうとすると意見の対立が起きるが、それも全く構わない。社会では対立が起きるのは当然なので、学校現場でもむしろそれを奨励する。そのとき、「目的」に照らして話し合い、合意形成ができるか。その対話のプロセスを学ぶことが、良い社会人になるための訓練だ――そんな工藤さんの考えに共感した。
対立を恐れず、相手と違う意見を堂々と主張することは「批判」にみえるかもしれないが、相手への「人格攻撃」ではないことを学校教育の場で教えていくことが必要であろう、と。
同調圧力が強すぎる学校現場においては、「批判的思考」の必要性を訴える意味は、逆にあるのかもしれないとも考えていた。
そうした思いから、訳語に違和感はありつつも、本の企画段階から1年近くは、本のタイトルに、「批判的思考」という言葉を入れようと思っていたのである。
その考えが変わったのは、テレビのキャスターから転じて、学校現場で豊富なメディアリテラシー教育の経験をもつ、下村健一さんをインタビューしてからである。(インタビューは同書に収録)
インタビューの中で、下村さんは、「批判的」という言葉をやめるべきだと主張した。子供たちは他人を批判したがらない。仲のよい友達の言ったことを『批判的に受け取ろう』と教えても難しい、というのが下村さんの意見だった。
大学生での講義でもこのような経験があったという。
情報に付和雷同して何でも信じてしまうと『そうだそうだ』と言いながら、みんなで崖から飛び降りることになるかもしれないから、情報をクリティカルにとらえるチェックをしなければならない。そう伝えたら、「自分は批判して仲間から孤立するぐらいだったら、『そうだそうだ』と叫びながら崖から落ちる方を絶対に選びます」という反応が返ってきた。そうした意見が相次いだことに、下村さんはショックを受けたという。
筆者は下村さんに「相手の意見を批判したり反論したりすることは、相手の人格を否定することではないと教えてもよいのでは」と問いかけた。
しかし下村さんは、「活発な学校、自立心の強い学生や児童生徒たちなら、そのように根本から教えていく方法こそ採るべきでしょう。ただ、これまで多くの学生や児童生徒を教えてきた僕の皮膚感覚でいうと、そういうタフな方法は怖くて実践できない若者の方がずっと多い」と話した。正論の一本槍で授業をすると、先ほどの学生のような反応にブロックされてしまうという体験談は、説得的だった。
「相手の意見への批判は、人格否定ではない」と伝え続けていく必要はあるが、最初の入り口である「批判的思考」という言葉だけで、心を閉ざしてしまう子供たちや学生が多いのなら、むしろクリティカルシンキングを学びにくくなるのではないか、と思うようになったのである。
■選んだ「吟味思考」という言葉
そうこうするうちに、2021年の秋、本のタイトルを出版社の編集者と決める時期にさしかかっていた。
kritikosという語源から考えると、「見分ける力」などの訳語も考えられるが、なんだかしっくりこない。
ciritical thinkingのcriticalに「吟味する」の意味が含まれるのは、前述の楠見教授の定義の中にもあるし、今回の本を共に編集した法政大学キャリアデザイン学部の坂本旬教授の論文を含め、アカデミアの世界にはすでに存在する見解だった。「吟味」なら、アメリカ人の友人が教えてくれた "constructive skepticism" ともニュアンスが合っている気がした。
むろん、「吟味」だけで、criticalの意味を完全に伝えきれるわけではない。しかし、少なくとも「批判的」よりは良いと考えた。
「吟味的思考」か「吟味思考」か迷ったが、語感から「吟味思考」のほうがよいと判断して、サブタイトルを「吟味思考(クリティカルシンキング)を育む」にしたいと出版社に提案、賛同いただいた。
■訳し方は国際調査の結果にも影響?
日本の教育において、クリティカルシンキングは軽視されてきたといっていいだろう。OECDの国際教員指導環境調査(TALIS・2018年報告書)によれば、「生徒の批判的思考を促す」と答えた中学校教員の割合は、参加48ヵ国平均で82.2%だったのに対して、日本は24.5%。調査対象国の中で、もっとも低い数字だった。
ディスカッション型、アクティブラーニング型の授業が増えているとはいえ、まだ海外先進国に比べると少ないこと、黒板に先生が板書して生徒がノートにうつすといった一方向型の授業が、まだまだ多い実態の反映ではあろう。
ただそもそも、調査で「生徒の批判的思考を促しているか」と聞かれたときに、教師の側が、「批判的」という言葉にアレルギーをもち、「できていない」と回答している割合が高くなっている可能性は十分考えられる。訳語の問題は、このような国際調査の結果にも影響してくるのではないか。
同書に収録している座談会では、新学習指導要領の改訂に中心的にかかわった文部官僚の合田哲雄さん(現・内閣府 科学技術・イノベーション推進事務局審議官)に登壇いただいている。合田さんによれば、新学習指導要領の最も重要なコンセプトである「主体的・対話的で深い学び」とは、実は、クリティカルシンキングを鍛えるということなのだという。
「子どもたちが、ロジカルシンキングやクリティカルシンキングといった思考法を協働的な学びの中で経験することは、社会において自立し、『持続可能な社会の担い手』になるに当たって不可欠であり、この二つはまさに社会制度としての学校の目的です」(同書362ページ)との発言もある。
この座談会で合田さんは、「日本では『批判』は、ロジックの問題ではなくて心情とか人格に関わることになってしまいがちです」と指摘。教育行政において「批判的思考」という言葉を使いにくいという内情を明らかにしている。
このようにみていくと、クリティカルシンキングを育む教育が日本で十分に広がっていないのは、訳し方の問題だけではないではないものの、訳語の影響はありそうだ。
「批判」は「人格否定」ではない。日本の教育現場における強すぎる「同調圧力」を緩和したい。筆者自身のその願いは、変わっていない。
ただ、入り口のところで、そもそも入り込めない生徒が多い、いやそれ以前に、先生たちも「批判的思考」という言葉に抵抗感があるのが現状ならば、クリティカルシンキングの訳語から変えることを試みたいと思ったのである。
定着している訳語を変えるのはなかなか難しいとの諦念は持ちつつ――。