ロゼッタ@ローマ
今からもう20年以上前になる。イタリア中部の小さな街で短期留学をするため、その前後の1週間ほどをローマで過ごした。決して高級ではないホテルに朝食を取りに行くと、決まって亀の甲のような形をした丸いパンとコーヒーカップが席に置いてあった。
パンの名前はロゼッタ。「小さなバラ」という意味で、真ん中についている丸い突起と甲羅のような模様が、バラの花に似ていることからそう呼ばれる。こぶし大の大きさだったが、中は空洞。その時は正直、それほどおいしいとは思わなかった。ただローマ出身の知人によると、「ローマのパンといえばロゼッタ」で、確かに街のどこのパン屋に行っても、当たり前のように売っていた。
ところが、時代は変わったらしい。昨年秋からローマで暮らしているが、ロゼッタを見る機会がめっきり減ったのだ。なぜだろう?繰り返しになるが、取り立ててすごくおいしかったかと言われると、そうでもない。だがイタリアのパンの中でも特徴的な形をしていて、ある種の存在感があった。それこそどこにでもあふれていたあのパンが、「絶滅危惧種」になってしまったことへの一抹の寂しさもある。
そうだ、ロゼッタを見つけに行こう。謎解きをかねて、ローマの街に出た。
ローマの中心駅であるテルミニから10分ほど歩くと、モンティ地区に入る。下町の風情を残しながら、雑貨やファッション、こだわりの書店などが集まり文化の発信基地になっている街だ。東京で言うと下北沢のような感じだろうか。ここにおしゃれな店構えでロゼッタを売る専門店「ツィア・ロゼッタ」があった。「ロゼッタおばさん」という店の名前には、主な客層である30~40歳代の人に、懐かしさを感じてもらう狙いがあるという。経営者のアレッサンドロ・ベルデローザさん(40)がそう教えてくれた。
ロゼッタは横に切り込みを入れて、空洞の部分にポルケッタ(ローストポーク)や牛のテール肉の煮込み、ハムなどを挟んで食べるのがローマ風。子どもの頃、学校から帰って食べるおやつの定番がロゼッタで、ベルデローザさんも、もちろん毎日のように食べていた。
ツィア・ロゼッタでは、生ハムとチーズを挟んだもののほか、なすの重ね焼き、肉団子、はてはチェリーとチーズクリームというデザート系まで、数十種類の独自メニューを展開。ミニサイズもあり、軽いおつまみとしてもいける。ワインと合わせて、街の雰囲気に合ったおしゃれな「大人のロゼッタ」を提供している。「ロゼッタの記憶は、私たちの遺伝子に刻み込まれている。その親しみあるパンをあくまで上品に、ビジネスの会議でもつまめるグルメに仕立てた」とベルデローザさんは話す。
でも、そんな遺伝子に刻み込まれた味が、なぜ無くなってしまったのですか?その質問に、ベルデローザさんが出した答えは、衝撃的だった。「まずくなったからだ」
ベルデローザさんがパン職人から聞いた話によると、ロゼッタが流行したのは数千年にもわたるパンの歴史の中ではごく最近で、1970年代だという。ミラノにも同じような形の「ミケッタ」というパンがあり、それがローマでは「ロゼッタ」として広がったらしい。80年代にはローマのパン職人の間で、ロゼッタを焼くコンクールが開かれるほど人気があったそうだ。
それが下火になったのは、2000年代初め。「材料は簡単なのに、作業は複雑で、焼くのに長い時間がかかる。つまり割に合わなくなったんだ。パン職人はだんだん手間のかかるロゼッタを作らなくなった」。確かに、ロゼッタは中が空洞で軽いため、ほかのパンと比べても場所を取るわりには単価が安い。さらにパン職人たちは、もうけにならないロゼッタよりも、もっと単価の高いパンを買ってもらおうと、あえてロゼッタの品質を下げたのだという。パン職人の思惑通り、ロゼッタを作る店は減り、子どもたちのおやつはパニーニや切り売りのピッツァに取って代わられるようになった。
とはいえ、にわかには信じがたい話ではある。今もロゼッタを焼いているパン職人は何と言うだろうか。老舗の味を求めて、中心部にあるパン店「コーラピッキオーニ」を訪ねた。
同店でロゼッタを担当するマルコさんの朝は早い。朝というか、深夜の午前0時半に出勤。記者が午前6時過ぎに訪れると、小麦粉と水、酵母を混ぜた生地をこねる作業が始まっていた。「ロゼッタの焼きあがりまで、3時間はかかるから」。確かに、同じオーブンで次々に焼けていくピッツァ・ビアンカ(ソースや具をのせないピッツァ)などに比べ、工程は多い。生地は何層にも重ね合わせ、丸くまとめてから1時間半寝かせる。それを小さく切り分け、さらに30~40分寝かせると、ようやく生地が完成だ。
ここで、小型の洗濯機ぐらいの謎の機械が登場。何をするのかと思いきや、円盤状に伸ばした生地を置いてふたを閉めると、きれいな六角形に切り分けられる。六角形の生地を、その隣にあるベルトコンベアのような機械に並べ、スイッチを入れるとあら不思議、それぞれの生地に亀の甲のような型がスタンプされるのだ。なかなか画期的な機械だが、ロゼッタ作り以外にはまったく役に立たないと思う。昔は手作業で六角形に切り分け、型を押していたそうだが、気の遠くなるような作業だ。
これをオーブンで焼いて完成、ではない。さらに焼く前に寝かせること30分。ようやく270度のオーブンに入れて10分ほど焼くと、あのバラのような形にふくらむ。ただし、いったんオーブンに入れたロゼッタが焼けたかどうか確認するために、不用意にオーブンの戸を開けると、一気にしぼんでしまうらしい。取り出す前に、オーブンのスリットを開けて蒸気を逃がす必要がある。何とも面倒くさいパンだ。
同店では、焼き上がりの形が良くない物は店頭には並べない。型がしっかり押されていないと、きれいにふくらまないからだ。なるほど単価が安い割には、とんでもない労力と手間がかかる。1回に焼ける量も限られているし、「割に合わない」というのが良く理解できた。
「パン職人として、ずるいことはしたくない。質の悪い材料を使う業者はいるが、おいしくて健康に良い物しか作りたくなかった」。13歳でパン作りの道に入り、同店を76年から経営しているアンジェロ・コーラピッキオーニさん(82)が、焼きたてのロゼッタを割って見せてくれた。「ロゼッタはローマで最も人気のあった安いパンの代表。でも質の悪い生地で作られるようになり、売れ行きは落ちた。質の悪い物は冷めるとゴムのような食感になるが、うちのは違う。もうけは少ないけど」。
90年代に入って客の購買力が上がり、もっと高級なパンが求められるようになったことも、ロゼッタ人気が陰る原因になったそうだ。
パン工房で3時間、手塩にかけて作られたロゼッタを見ると、なんだかありがたみすら感じるようになってきた。シンプルで手間のかかるものほど、おいしい。ロゼッタはイタリアの食の神髄を今に伝えてくれているような気がする。
ロゼッタの作り方
(ローマのパン店「コーラピッキオーニ」のレシピ)
【材料】
00番の小麦粉(たんぱく質の少ない軟質小麦を細かくひいた物)1キロ
水 600グラム
塩 10グラム
ビール酵母 10グラム
【作り方】
①材料をこねてまとめ、1時間半寝かせる。
②生地を切り分けた後、たたんでは丸める作業を何度か繰り返す。丸めた生地をさらに30~40分寝かせる。
③生地を六角形に切り分け、型を押す。しっかり型を押さないと、ふくらまない
④型を押した生地を、さらに30分ほど寝かせる
⑤オーブンで焼く。270度で約10分。焼き上がりをすぐに外気にさらすとしぼんでしまうので、しばらく待ってから取り出す