ある日、尋ねられたことがある。料理をして最も楽しいことは何かと。答えに窮した。ご存じかと思うが、多くの場合、私が料理をするのは楽しいからではなく、必要があるからだ。家ではサンドイッチ以外の食事をつくれる人がいない。ゴミを出しすぎず、おいしくて新鮮、時に体によいものを食べようと思ったら、自分でするしかないのだ。
もちろん、愛する人のためでもある。英国人として声を大にしては言えないが、それがすべてと言ってもいい。おいしくて、健康的な料理をつくることは、家族や友人に「愛している」と伝えるための一手段だ。
さらに、ちょっとした理学療法のようでもある。私のように、生計を立てるため何時間もキーボードをたたき画面に目を凝らしていれば、自分の手でなにかつくると、一日のいい締めくくりになる。実体があって手で触れられて、食卓に仰々しく置いて「ジャーン!」と言えるようなものを。
食べることは、確かに楽しみにもなり得る。しかし、料理をつくることに関していえば、また別の動機があるのだ。
例えば、感動してもらうために料理をする。あらゆる物書きと同じく、私だって称賛されたい。畏敬の念もいい。私は認められたいときには、見栄えがよくしゃれていて、手の込んだものをつくることにしている。
相手を知れば危うからず
重要なのは「観客」を知ること。相手が料理に関してそこまで詳しくない一般人なら、そう難しくない。私の義理の兄弟は、私がどうやってスーパーの冷凍食品売り場で買う袋入りのものよりおいしいフライドポテトをつくることができているのか、まだ理解していない。彼のような人にパブロバのようなデザートを出せば、ジョエル・ロブションかと思ってくれるだろう。ホイップクリームと新鮮なフルーツを添えた大きくて雲のようなメレンゲ菓子は、手品のような調理法でつくられるが、料理をする人には小細工にすぎないということは分かっている。メレンゲ菓子は簡単なのだ。
もう少し台所仕事に慣れた人になにかふるまうなら、フォン・ド・ボー、パイやタルトを使った料理、もしくはあの究極の綱渡り的料理、スフレといった分野へと踏み込むことになる。一からつくった本物のニョッキもかなり印象的だし、魚介類のソースがかかった魚の上品なつみれ「ナンチュアソースがかかったカワカマスのクネル」もいいだろう。
こういった料理をちゃんとつくれると、とってもやりがいがある。マカロンがふくらんで「足」(底面の周りのあの平らな縁の部分)が生えてくるのがオーブンの窓から見えたとき(失敗と成功を分ける印なのだ)、ビーフ・ウェリントンを切って、まだ肉がピンク色をしていてジューシーなとき、私は偉大なバスケットボール選手がスラムダンクを決めるときの気持ちを想像する。画家が代表作に最後の一筆を入れるときのようなものだ。
ある日、私は極めて感銘深いことを実感するに至った。この数年間、大切な人たちに「愛している」と伝えるために料理をするのだと言い聞かせてきたが、食事をできる限りおいしくつくることに集中するため、何事にも邪魔されずに一人で料理をしたかった。先日、私の誕生日に友人を何人か招いて、キッチンや外のテラスにあるグリルで一緒に料理をすることがあった。今までの料理で一番楽しかった。遅ればせながら、料理の楽しさは、一日の終わりに一緒に食べるおいしいものをつくるために好きな人たちと共に作業すること、共同作業にこそあると気づいたのだった。他にも分かったことがある。他者と体験を共有することで、皿洗いさえ楽しいものになるのだと。(訳・菴原みなと)