シリアで戦死、テヘランに墓標
特派員をしていたドバイから4年前に帰国した私は、最近の中東情勢の様変わりがうまくのみ込めずにいた。
調べ始めると浮かんだ「三日月」という言葉を手がかりに、現場に向かった。
シーア派の巡礼者でにぎわうテヘラン北部のサーレ聖廟。小さな墓標が、その前庭にあった。「革命防衛隊」の軍服をきた若い男性兵士の肖像が描かれ、黒い布をまとった年配の女性たちがそっと祈りを捧げていた。革命防衛隊は、イランのイスラム体制を守る、国軍とは別の軍事組織だ。
2年前、シリア北部アレッポ郊外で、「背教者」との13時間にわたる戦闘の末、囲まれてミサイルを被弾─。墓標に最期の状況が生々しく記されていた。
シリアで2011年に始まった内戦で、シーア派の大国イランは、影響下にあるレバノンのシーア派組織ヒズボラとともに、盟友アサド政権を支援するため介入した。ロシアの協力も得た政権軍は16年、この兵士が殉教したアレッポを奪還し、軍事的優位を確立した。
隣のイラクでも、スンニ派の過激派組織ISが国土の約3分の1を占拠した14年、イランは革命防衛隊を「助言役」として派遣。地元のシーア派住民を組織化し、IS掃討戦の主軸に成長させた。
イラクの首都バグダッドには、連携を深めたイランとイラク、シリア、そしてロシアが軍事情報を共有する拠点もできた。
イランからイラク、シリアを経て、ヒズボラが根を張るレバノンへ─。二つの戦闘を経て、革命防衛隊とヒズボラ、そして気脈を通じるシーア派軍事組織が点在する「つながり」が強まっていた。確かに、地図の上では三日月のように見えなくもない。
このつながりは何なのか。私は「三日月」の反対側にあり、ヒズボラの勢力が強いレバノン南部を車で走った。
レバノンにイラン最高指導者の肖像画、なぜ
06年に戦火を交えたイスラエルとの国境に近い港町スールの入り口に、イランの最高指導者ハメネイ(79)の巨大な肖像が飾られていた。
何度かその肖像を目にしながら国境沿いを内陸に進むと、激戦地だった小高い丘にイランの支援でできた「イラン庭園」があった。イスラエルの集落を見下ろす場所に、イランとヒズボラの旗が並んではためいていた。
なぜ外国の指導者の肖像を掲げるのか。シーア派の神学校で、ヒズボラの内情に詳しい校長サデク・ナボルシ(43)に尋ねると、「キリスト教徒にとってのローマ法王と同じです」と言った。外国の指導者ではなく、シーア派の宗教指導者として仰いでいるのだという。
だが、軍を持たない法王とは違い、政教一致体制をとるイランの最高指導者は、革命防衛隊の最高司令官としての顔もある。そのハメネイを師と仰ぐヒズボラの軍事部門は、約2万の戦闘員を持つ。政治部門も今年5月の総選挙で躍進し、一段と存在感を高めていた。
イランの影響力が広がるこの「新しい地図」は、中東全体を揺さぶっている。
「シーア派の『三日月』の出現は、2大宗派の力の均衡を変え、米国と同盟国に新たな挑戦をもたらしかねない」
イラク戦争でスンニ派のフセイン政権が崩壊した後の04年、ヨルダンの国王アブドラが、シーア派のイランの影響力拡大を危惧した言葉だ。実際、イラクでは米国が導入した選挙の結果、国民の6割を占めるシーア派が主導する政権が生まれ、イランとの関係が強まった。
ISの台頭やシリア内戦など、地域を揺るがした混乱がいったんは収束に向かうなか、すっと浮かび上がったイランの存在に、脅威論が高まった。
ただ、ことは宗派の違いだけで説明できるほど単純でもない。
イスラエルや米国への「抵抗」を掲げてきたイランは、パレスチナではスンニ派勢力を支援する。イランの識者たちは「シーア派の三日月」論を、「スンニ派が宗派の違いで分裂を煽ろうとしているだけ」などと一蹴した。
それなら、イランやヒズボラから見た新しい地図にはどんな意味があるのか。
「抵抗の枢軸」。ヒズボラの最高指導者は最近、演説でこのフレーズを繰り返す。「シリアとイラク、イエメン、パレスチナで起きていることはすべて連動し、切り離せないものだ」。神学校長のナボルシは中東で起きている対立の連鎖を強調し、こう「予言」した。「次に戦争が起きるなら、それはレバノン対イスラエルではない。『抵抗の枢軸』対イスラエル、米国になる。極めて危険なものになるだろう」