目の前で起きたジャスミン革命 「アラブの春」渦中にいた元日本大使が語る「あの時」
当時、駐チュニジア日本大使として一連のできごとを目撃していた多賀敏行さん(68)の目には「いま、革命が起きている」とは見えていなかったという。「いくつもの偶然が連鎖して、突然、崩壊は起きる」。多賀さんの体験は、いまの国際情勢を見る上でも示唆的だ。(聞き手、構成=高橋友佳理)
2009年8月から12年10月まで、チュニジア大使を務めました。着任して、1年4カ月たった10年12月のこと。中部シディブジドで若者が抗議の焼身自殺をはかりました。自殺をきっかけに、チュニジアの中部や南部で若者たちが暴動を起こしているのは、メディアを通じて伝わってきていました。しかし、中部では以前にも暴動が起きたけれど後に鎮圧されていたので、今回も「やがて鎮圧されるだろう」というのが大使館での見方でした。他の国の大使館も同じでした。
若者が焼身自殺をはかった日から10日ほどたった12月28日、大使館の「仕事納め」の日に、書記官がその動きを調書にまとめて決裁に持ってきました。そこには、「今回の一連の騒動は今までより広がりのある出来事ではあるが政権の屋台骨を揺るがすことはないと思われる」と書いてあり、安心したのを覚えています。実は翌日には、シディブジドに近いスベイトラに遺跡を見に行こうとしていたので、そのまま行こうと考えたほどです。結局、チュニスの西にある別の遺跡に目的地を変えましたが、それは頻繁にインターネットで情報収集をしていたチュニジア人の運転手が暴動の広がりを気にしたためです。
年が明けて1月13日。チュニジア外相が各国大使を集め、自信にあふれた表情で状況を説明していました。そして、その日の夕方には、ベンアリ大統領自身がテレビで演説し、14年の大統領選に出馬しないことを表明しました。その翌日、ベンアリ氏はレイラ夫人とともにサウジアラビアに飛び、この日が結果的に、23年間続いていたベンアリ政権が崩壊する「ジャスミン革命」の当日となるのですが、この国外脱出をベンアリ氏自身は意図していなかったのでは、と思っています。
夫人がこの日にサウジに飛んだのは「巡礼に行くため」で、ベンアリ氏は夫人を送って行くために同乗しただけで、翌日チュニスに戻るつもりだったと言われているのです。しかし、いざ帰ろうとしたときには、国内の騒ぎが大きくなっていて、帰れなくなった。手違いのようなものだったかもしれませんし、「側近にだまされて飛行機に乗せられたのでは」という見方もあります。
当時渦中にいた私には、正直、政権は「ほとんど何の前触れもなく崩壊した」と感じられ、唐突感が否めませんでした。崩壊の1カ月前には、チュニジアで日本・アラブ経済フォーラムが開かれ、前原外相や大畠経産相らがチュニジアを訪れており、ベンアリ大統領もにこやかに表敬訪問に応じていたのです。チュニジア政府と最も近いと言われていたフランスの外相が「崩壊は誰も予測出来なかった」とのちにルモンド紙のインタビューに語っていましたが、本当に誰も予測していなかったと思います。
さらに言えば、もしチュニジアでベンアリ政権が崩壊しなければ、その後、エジプトやリビアなど中東各地で次々に長期独裁政権が倒れる事態にはならなかったのでは、と感じています。なぜなら、チュニジアの人口は1千万人余りでエジプトは9千万人超。国土も6倍近い。エジプト人は大国意識を持っていますから、小国のチュニジアに出来たことがエジプトに出来ないわけがない、と民衆が考えたのは容易に想像がつきます。
そのため、私は政権崩壊後も、これを革命と判断するのは時期尚早と考え、「政変」のタイトルで本省に電報を打っていました。いま振り返っても、歴史に必然はない。本当にささいな偶然が、たまたま二つ、三つ連鎖して起きたために革命という結果になったのだと思います。
もう一つの「偶然」は、焼身自殺をはかり、1月に亡くなった若者ムハンマド・ブーアジージーが実態とは違う姿で伝えられ、「英雄」にまつりあげられていったことです。
ですが、実態はかなり違いました。後から知られるようになったとおり、ブーアジージーは「大学卒で失業中の青年」ではなく、高校も中退しており、元から青果商の仕事をしていました。さらに、事件にいたる経緯も、流布された物語と私の知ることは随分違います。ブーアジージーは無許可で行商をしていたことから女性警察官に荷台などの商売道具を取り上げられ、もめている最中に平手打ちされた、と報じられています。「女性の警察官に公衆の面前でぶたれたことを屈辱と感じ、自殺の直接の引き金になった」と言われていましたが、真実は、ブーアジージーの方が実は警察官に性的嫌がらせにあたる悪態をついたために平手打ちされたのだということが、その後研究などから明らかになってきました。そうなると「殉教者」のイメージとは遠いように思いますが、誤った像が先行すると、それが「史実」となっていくのでしょう。
政権崩壊後、チュニスでは治安が一気に悪くなりました。約2000人の大統領警備隊が、ベンアリ氏からチュニスを混乱に陥れるように指示を受けていたといわれ、私がいた日本大使公邸は大統領府に近かったために、銃撃戦を間近に経験することになってしまいました。大使公邸には、私と料理人に加え、日本人の国際公務員1人が避難していました。1月16日、近くで激しい銃撃音が聞こえました。二階に上がって窓から遠い廊下に3人で伏せていました。最も壁が厚く安全な主賓室の寝室に移動しようと入ったところ、ベランダを銃を持った兵士が歩いているのが窓越しに見えたのです。あわてて廊下に戻りました。
後から調べると、国軍の兵士で、公邸のすぐ前にある大統領迎賓館に逃げ込んだ大統領警備隊を掃討する作戦のために、公邸敷地内に入り込んだようでした。そんなこともあり、公邸にいるより大使館の方が安全だという大使館の公使からの提案もあり、私と料理人はその日の夕方、チュニジア警察の車両で大使館に移動しました。途中、黒こげになり横倒しになった軍の輸送車や、ベンアリ大統領のポスターの顔の部分がずたずたに破られている看板を目撃しました。もし銃撃に巻き込まれて運悪く命を落とすことになっても身元が分かるようにと、スーツにネクタイを締めて車に乗り込んでいました。通常の2倍ほどの時間をかけて大使館にたどり着いたときには、ほっとしました。
革命に至る日々を振り返ると、まず思い出されるのが、言論、表現の自由が制限された独裁政権下の社会の息苦しさです。新聞の1面には常に大統領や大統領夫人の写真。政府の役人は大統領に忖度して真実を語らないので意味のある意見交換や議論ができません。メディアにも真実が載らないために、各国大使の間で情報交換したり、外国で発行された国内発禁本を読むなどして情報収集をせざるをえませんでした。民主的な選挙を経て選ばれた政権であっても独裁・強権政治になっていく可能性は、世界中のどこにでもあります。チュニジアの革命は遠い国で起きたことかもしれませんが、私たちと全く無関係と安心していてはいけないと思います。
たが・としゆき 1950年、三重県生まれ。一橋大学卒業後の74年、外務省入省。英ケンブリッジ大学留学を経て国連日本政府代表部の1等書記官、外務省国内広報課長、天皇陛下の侍従を務め、2009年から12年まで駐チュニジア大使。その後、駐ラトビア大使を務め、退官。
現在、大阪学院大学外国語学部教授、中京大学国際教養学部客員教授。今年10月、「『アラブの春』とは一体何であったのか 大使のチュニジア革命回顧録」を臨川書店から出版。他の著書に「『エコノミック・アニマル』は褒め言葉だった」(新潮新書)、「外交官の『うな重方式』英語勉強法」(文春新書)