世界一眺めが悪いホテル
キリストの生誕地として知られる世界遺産「聖誕教会」のあるヨルダン川西岸ベツレヘム。年間200万人以上が訪れる観光の町に昨年、型破りな名所が生まれた。
「世界一眺めが悪い」
そんなうたい文句で、社会を風刺するストリートアートで知られる英国の覆面芸術家、バンクシーが手掛けたホテルだ。道向かいの分離壁が眺望を遮り、その名も「ウォールド・オフ・ホテル(壁で切り離されたホテル)」。米名門ホテルチェーン「ウォルドルフ・アストリア」を連想させる響きだ。
管のついたガスマスクをはめ、涙を流す天使たち。催涙ガスに巻かれた男性の彫像。壁には監視カメラとパチンコが飾られている。一見優雅なコロニアル様式のロビーを見渡すと、バンクシーの異形の作品群で彩られていた。
壁建設は第2次インティファーダ(対イスラエル民衆蜂起)のさなかの2002年、テロ防止を名目に始まった。国際司法裁判所が04年、国際法違反と勧告したものの、1967年の第3次中東戦争の休戦ラインをパレスチナ側に大きく踏み越えた場所をつないで、いまや総延長約450キロに達している。ホテル支配人のパレスチナ人ウィサム・サルサ(43)は、「建設が始まってしばらくたつと世界のメディアに全く取り上げられなくなって、壁が既成事実になってしまった」と振り返る。観光客はバスで聖誕教会に直行し、壁に圧迫された住民の暮らしに目を向けることなく去っていった。
失われた世界の関心を呼び戻したのがバンクシーだった。05年ごろから壁に風刺画を描き始めると、欧米の芸術家らが競い合って後に続き、壁は芸術表現の場として再び注目を集めた。バンクシーと意気投合したウィサムはホテルを開く計画を進め、17年3月にオープン。九つある客室はほぼ満室で、来場者は今年、昨年の倍の10万人に達する見通しだ。ウィサムは「暴力に訴えなくても、芸術を通じて世界に声を届けられることをパレスチナの人たちに示せた」と語った。
偽装で買った通行証、8万円
壁の向こうに行くには検問所を通らなくてはならない。外国人の私は簡単に行き来できるが、パレスチナ人には許可証が必要だ。その様子を見ようと、私は午前6時すぎ、エルサレムから西岸のラマラに向かう途中にあるカランディア検問所を訪ねた。
エルサレム側の壁沿いに数十人のパレスチナ人男性が腰掛けていた。工事現場や食堂などで働く労働者たちで、雇い主のバスを待っているのだという。車でラマラ側に渡って、検問所の建屋に入ると、パレスチナ人が続々と鉄格子の回転ドアをくぐっていた。ガス会社に勤めるマスリ・ファレス(55)は「いつもは2時間待ち。午前7時に出勤するには4時から並ばないと間に合わない。遅刻すればクビになってしまう。うんざりだ」と話した。
薄暗い待合所で時間をつぶしている人たちもいた。建設作業員の男性(45)は「私の労働許可証では午前7時からしか通れないんだ」と首をすくめた。見せてもらうと、B5大の紙に顔写真とバーコード、ヘブライ語とアラビア語で名前や誕生日などが記されていた。ただ、実際には雇用契約はなく、1カ月間の労働許可証を2500シェケル(約8万円)で「買った」のだという。
どういうことなのか。
許可証を手に入れるには、雇い主がイスラエル当局に申請しなければならないが、定職を得るのは容易ではない。そのため、イスラエルの事業主にお金を払って、雇用関係があることにして申請してもらうのだという。「検問の向こうに行ければ日雇い仕事が見つかるし、稼ぎもずっといい」と男性。西岸より7割高い日給250シェケル(約8千円)を稼げるため、偽装で許可証を買っても実入りは良いのだという。
壁が阻むのはパレスチナ人だけではない。イスラエル人もまた、パレスチナ側が警察権を持つ西岸のラマラなどに許可なく行くことはできない。検問所には「イスラエル市民は立ち入り禁止。生命の危険があり、イスラエルの法律違反」と書かれた看板が立っていた。
壁が生まれて十数年が過ぎ、行き来も厳しく制限される中、ユダヤ系イスラエル人の間ではもはや、西岸を占領しているという意識すら薄れつつある。民間シンクタンク、イスラエル民主主義研究所の昨年5月の世論調査では、イスラエルによる西岸の管理は「占領ではない」と答えたユダヤ系イスラエル人が6割を超えた。1993年のオスロ合意が掲げた「2国家共存」への期待も乏しく、同研究所の今年8月の調査では、「実現不可能」との答えが6割近くに達した。パレスチナ側でも同様で、昨年末の別の世論調査で、ガザと西岸のパレスチナ人の6割が「実現不可能」と答えた。
遊牧民の村が占う2国家共存の行方
共存が遠ざかる中、ある遊牧民の村の行方が国際的な注目を集めている。
エルサレム近郊にある西岸のハーンアルアフマル村。アラブ系遊牧民ベドウィン約180人が暮らす小さな集落だ。7月上旬に訪ねると、幹線道路に面したごつごつした斜面に、ビニールシートやトタンでできたバラックが並んでいた。水道や電気は通っておらず、小学校の校舎はタイヤと泥でつくったもの。校庭で遊んでいた子どもたちは私に気づくと、パレスチナ旗を振り始めた。
村は1948年の第1次中東戦争で砂漠地帯から追い出された遊牧民がつくった。67年の第3次中東戦争で西岸を占領したイスラエル当局が「違法建築」として取り壊しを求め、代替地が「壁の外」に用意されたが、村人は拒み続けた。リーダーの一人、ムハンマド・イブラヒム(50)は「ここはベドウィンの土地だ。イスラエルが占領する前から、ここで生まれ育ち、結婚して家族を築いてきた」と話した。
4日後に再訪すると、幹線道路に十数台の治安車両や重機が並び、村内は多数の治安関係者が配置され、村人は寄り合い所に不安げに集まっていた。そして9月5日、最高裁が立ち退きの強制執行を認め、当局が村をいつでも取り壊せる状態になった。
事態が切迫する中、欧州議会は9月12日、占領地からの強制移住は「重大な国際人道法違反」と警告する決議を採択。国連のムラデノフ特別調整官(中東和平担当)も16日、「国際法に反し、一体的なパレスチナ国家の建設を危うくしかねない」と中止を求める声明を出した。
この小さな集落の行方が国際的な懸念を呼んでいるのは、その立地にある。
二つの大きな入植地の間に位置し、一帯では「E1」と呼ばれる広大な地域の入植が計画されている。E1が入植地になると西岸が南北に分断されてしまうため、歴代米政権を含む国際社会が強く反対し、イスラエル政府も開発の構えをちらつかせつつ、一線は踏み越えずにきた。欧州議会は決議で「村が位置するE1回廊地域の現状維持は、2国家共存と、将来の一体的なパレスチナ国家建設に根本的な重要性を持つものだ」と改めて自制を求めた。
しかし、親イスラエルのトランプ米政権が生まれたことで入植の動きが活発化しており、村の取り壊しがE1開発の「突破口」になるとの見方が強まっている。パレスチナ政策調査センター所長のハリル・シカキ(65)は「E1が開発されれば、現実の問題として2国家共存は終わりです。パレスチナ人が南北に分断された国家を受け入れることはありません」と焦りをにじませた。