アメリカの放送局NBCが1999年から2006年にかけて放映したドラマ「ザ・ホワイトハウス」(NHK・BSなどでも放映)は、政治を根本から考える素材の宝庫である。2000年に放映されたエピソードでは、自分の気に食わない候補者が当選確実と聞いていら立つ大統領を、報道官がこう言っていさめる場面があった。
「敵が勝つこともあるのが民主主義です」
■政治は「折り合いの技術」のはずが……
なんと見事な定義だろうか。
もともと政治とは、人間の多様性を前提とする営みである。自分と異なる意見や利害を持つ人たちと折り合いをつけていく技術が政治なのだ。だが、このエピソードから18年後の世界を覆っているのは、自分が100%正しいと思いこみ、相手を完全に否定する政治である。最たるものが、アメリカのトランプ大統領だろう。既存の政治制度への不信をあおり、人種的偏見を容認し、都合の悪い事実を認めず、ひたすら「敵」への憎悪をあおる。そこには「他者との共存」という視点はない。
こうした傾向を「部族主義」と呼ぶのが、アメリカのエール大学法科大学院のエイミー・チュア教授だ。新著”Political Tribes”(「政治的部族」)で、イデオロギーやナショナリズムではなく、人種、地域、宗教などにもとづくグループ・アイデンティティーが、現代世界でますます大きな役割を果たしていると指摘する。「部族主義」はもともと開発途上国などで見られた現象だが、先進国の政治にもあてはまる。「部族主義が自由民主主義の仕組みや国際秩序を切り裂き始めた」と警告を発する。
チュア教授によれば、アメリカで「部族主義」がはびこり始めた原因のひとつは、人口動態の変化だ。
これまで支配的立場にあった白人が、スペイン語を話すヒスパニック系人口の増加などで少数派に転落しつつある。危機感を持った彼らは、移民を攻撃するトランプを熱烈に支持する。だがもうひとつの大きな要因は、貧富の格差が広がったことによる経済的不安だ。万人に機会が開かれている「アメリカの夢」は過去のものになった。高い教育を受け資産を持つエリート層はますます豊かになり、貧しい家の子は一生貧しいまま。怒りは、既存の体制やエリートに向けられる。トランプ大統領のような扇動的な政治家がホワイトハウスに入ったのは、彼に共感する「トランプ族」の力だというのだ。
しかも、トランプに対抗するリベラル陣営の批判も過激化し、彼らもまた「部族」となっている。「ひとつの族はもう一方の族を単に反対陣営としてではなく、非道徳的、邪悪、反アメリカ的存在をみなしている」とさえ言う。
■「部族主義」は日本も無関係でない
ここまで読むと、アメリカだけの話ではないことに気づくだろう。欧州連合からの離脱を選んだイギリスの2016年の国民投票、そして近年、東欧諸国やイタリアで誕生したポピュリスト政権も同根だ。ナチスの過去を克服したはずのドイツでも、排外主義的な右派政党が連邦議会に進出している。
日本はどうだろうか。確かに、アメリカやヨーロッパに見られるような深刻な人種的対立や社会の亀裂はまだ見られない。しかし、格差の問題やヘイト・クライムは年々深刻化している。
なによりも政治の風景が変わった。過去30年間、日本の政治を見てきた私の目には、妥協や譲り合いを模索する政治から、勝者総取りの政治に明らかに変質しているように見える。ギャンブル依存を増大させかねないカジノ法案にせよ、根本的な改革を先送りにした参議院定数6増の公選法改正にせよ、与党が国会で3分の2の多数を持っていれば、野党の反対も世論の不信もおかまいなく突き進むことができる。政治的部族主義はすでにあらわれているのではないか。
いや、これは安倍政権に始まったことではない。
「議会制民主主義は期限付きの独裁」だとして、選挙で民意を得れば次の選挙まで何をしてもよいと言ったのは、民主党の菅直人首相だった。財源捻出のために、テレビカメラの前で官僚をたたく「事業仕分け」という政治ショーを行ったのも民主党政権である。対立が激化する中で,相手を認めない部族主義が増長している。
チュア教授の本の話に戻ると、教授はふたつの処方箋を示している。ひとつは、機会均等を実現し社会的上昇の可能性を高めること。もうひとつは、自分と異なるグループと交流し相互理解を深めること。
両方とも一朝一夕にできることではない。しかし、部族主義を放置すれば、民主主義の根本が崩壊してしまう。そして、教授の処方箋にもうひとつ付け加えるとすれば、歴史上、国民の団結を強めるために為政者がたびたび利用して来たあの手段だけは、なんとしても避けねばならない。
それは外からの脅威を煽ること、戦争である。