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欧州に押し寄せたから「問題」なのか 「難民危機」に足りない視点

中東ニュース ここを読む 更新日: 公開日:
クロアチア東部の難民キャンプでスロベニア国境に向かうバスに乗った親子(2015年、喜田尚撮影)

中東やアフリカから押し寄せる難民・移民が、欧州の政治風景を変えつつある。2015年の「欧州難民危機」がきっかけだ。でも「危機」はそのずっと前からあった。それが「先進国」に届かないから、問題として認識されなかっただけではないのか。(朝日新聞論説委員・平田篤央)

「やあ、同郷人」

むかしテヘランに暮らしていたころのこと。街で建築現場の近くを通りかかかると、こんな言葉をかけられた。

「ハムワタニー」「ハムシャハリー」

「ハム」は同じという意味。ワタンは故郷、シャハルは都市のこと。つまり「同郷人」とか「同じ町の出身者」といったところか。

声の方を振り返ると、確かに私たち日本人によく似た顔立ちの男たちがいる。聞くと、アフガニスタンから来たハザラ人だという。ハザラ人は、モンゴル系のルーツを持つとされ、バーミヤン周辺に住む。バーミヤンといえば、2001年に当時のタリバーン政権によって石仏が破壊されたことを覚えている人も多いだろう。

アフガニスタンの首都カブール郊外に集まって暮らすハザラ人たち(2002年、仙波理撮影)

彼らは難民である。ハザラ人の話すダリ語はペルシャ語と兄弟言語なので、イラン社会には比較的すんなりとなじむことができる。同じダリ語を話すアフガンのタジク人もイランにはたくさんいた。多くが日雇いで食いぶちを稼ぎながら、互いに助け合って生きていた。

1979年の旧ソ連による侵攻、ソ連軍撤退後のアフガン軍閥同士による内戦、さらに2001年には米同時多発テロへの報復として米国などがタリバーン政権を攻撃。だがタリバーンは消えず、いまも反政府勢力として武装闘争を続けている。アフガン難民の流出は40年近く、絶えることがない。

先月、UNHCRが発表した報告書によると、イランは今も100万人近い難民を受け入れている。難民が最も多く暮らしている国はトルコで350万人、次いでパキスタンとウガンダの140万人、レバノン、イランがそれぞれ約100万人と続く。トルコとレバノンはシリアからの難民、パキスタン、イランはアフガン難民、ウガンダは南スーダンからの難民が中心だ。

テヘラン郊外には、アフガン難民のための非公認小学校もあった(2001年、平田篤央撮影)

残念ながら、中東もしくはその周辺国ばかりである。それだけ、この地域で内戦や紛争が多いことの裏返しとも言えよう。

2015年に欧州で「難民危機」が叫ばれた。その1年だけで100万人を超す難民が殺到したからだ。トルコからギリシャ、東欧を経て陸路で、また北アフリカから地中海を粗末な船で渡って西欧や北欧を目指した。ボートが転覆し、岸辺に打ち上げられたシリア難民の3歳の男の子の写真は衝撃を与え、人道的な観点からも難民を支援すべきだとの声も高まった。

ぬぐえない違和感

ただ、中東を取材してきた私には違和感がぬぐえなかった。難民は何十年も前から数多く存在している。欧州ほど豊かでない中東地域の国は100万人単位の難民を抱えてきた。それが地中海の向こう側にとどまっていとるき、欧州でどれほどの人が難民に思いをはせただろうか。昔から先住民が暮らしていた「新大陸」を発見した、というのと同じ構図に思えてならなかった。

欧州ではその後、逆に難民や移民への反発が強まっている。難民の多くがイスラム教徒であることから、「イスラム・ヘイト」も公然と語られるようになった。そうした主張をする右派政党が勢力を伸ばし、中には政権に加わる国も出てきた。難民受け入れに最も積極的だったドイツのメルケル首相は政治的に難しい局面に立たされている。

ドイツ東部ドレスデンで、「反イスラム」デモに参加した人々(2015年、玉川透撮影)

いやな雰囲気である。国際テロ組織アルカイダにせよ、過激派組織「イスラム国」(IS)にせよ、「欧米キリスト教・ユダヤ教連合」がイスラム世界を攻撃していると思わせることが、正当化の口実であり、人々を動員する駆動力なのだ。

米国では先月、連邦最高裁がトランプ政権が導入した中東アフリカ諸国からの入国規制を支持する判決を下した。欧米での「反イスラム」の高まりは、活動がにぶっている過激派組織に燃料を与えることになりかねない。