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何がエジルを代表引退に追い込んだのか ドイツとトルコのかくも複雑な関係

中東ニュース ここを読む 更新日: 公開日:
W杯ロシア大会で韓国戦に敗れ、肩を落とすエジル=ロイター

「勝てばドイツ人、負ければ移民」 「試合に勝てば僕はドイツ人で、負ければ移民だ」 ドイツ代表として活躍してきたサッカー選手メスト・エジル。トルコ系ドイツ人の彼は今年7月、こんな言葉とともに、今後の代表入りを辞退すると表明した。声明でエジルは「民族差別と軽蔑を感じた」と述べている。ドイツではいま、反移民、嫌イスラムが広がっている。今回の一件はその象徴ともいえる。だが、過去半世紀にわたるトルコとドイツの関係はそう単純ではない。そのことを考えてみたい。(朝日新聞論説委員・平田篤央)

騒動の発端は、トルコの大統領選さなかの今年5月に、エジルが現職のエルドアン氏と面会して記念写真を撮影したことだった。6月のW杯ロシア大会でドイツが1次リーグで敗退すると、エジルの「政治的行動」がチームの和を乱したなど「戦犯」扱いする声が高まったのだ。

トルコ・デブレクに掲げられた、エルドアン大統領とエジルのツーショット写真を使った看板=ロイター

エジルにとって、それがいかに耐えられないものだったか。『メスト・エジル自伝』(東洋館出版社)を読んで理解できた。

自伝によると、貧しいトルコ移民2世の両親の元に生まれ、ドイツ語も不得手だったエジル少年は、サッカーを通じてドイツ社会に受け入れられていく。

トルコ国籍を捨てた決断

ただ、プロチームでプレーするようになった2006年に大きな決断を迫られる。ドイツ代表となるためトルコ国籍を捨てたのだ。ドイツで生まれ、サッカーを学んだエジル本人は当然の選択だと考えた。

しかし、ドイツのトルコ人社会やトルコ本国からは「裏切り者」と呼ばれ、中傷の書き込みのため何度か公式サイトを閉鎖しなくてはならなかったという。

その苦境を乗り越えて、エジルはドイツ・サッカーのために尽くした。2010年のW杯南ア大会でドイツ代表に選出され活躍。さらに2014年のブラジル大会では優勝の原動力になった。

2014年のW杯ブラジル大会で優勝。トロフィーを掲げ、喜びを爆発させるエジル((13)の選手の左後方)らドイツの選手たち=上田潤撮影

自伝の締めくくりに、エジルはこの大会の準決勝で優勝候補の地元ブラジルに71で大勝した試合を引き合いに、「融和はいいことだ」と記している。

「僕たちは完全に調和していて、一本ずつのパスが機能していた。試合を支配していたのはエゴではなく、ともに戦うという意思だった。隣人がどこから来ていようとも、社会もそんなふうに機能するべきなのだ。力を合わせれば、必ずうまくいく」

彼が代表引退を余儀なくされたいま、このくだりを読むとせつなくなる。

エジルにとって不運だったのは、ここ数年、ドイツ国内でエルドアン氏への批判が強まっていたことだ。政教分離を国是としてきたトルコで、エルドアン氏は親イスラム政策を推し進めてきた。さらに、昨年の憲法改正で大統領の権限を強化し、独裁色を強めた。

ドイツ・ケルンで、エルドアン・トルコ大統領の訪問に抗議するデモ=2014年5月、ロイター

そんな状況は分かっていたはずだ。だから、彼の行動は確かに不用意だったかも知れない。結果的に、イスラム嫌いの右派からはたたかれ、民主主義を重んじる左派からも批判を浴びることになってしまった。

エルドアン大統領誕生の遠因、ドイツ側にもある

ただ、エルドアン氏を生み出した背景には実はドイツも深く関わっているのだ。そのことをどれだけのドイツ人が自覚しているだろうか。

ドイツは1960年代から70年代にかけて、高度成長時代の労働力不足を補うため、トルコから労働者を受け入れた。エジルの祖父もそうで、母方と父方の2人とも黒海沿岸のソンダルグという町の炭鉱労働者だったという。

彼らはガストアルバイターと呼ばれた。お客としての労働者、つまり移民として社会に受け入れるのではなく、数年で帰国することが前提だった。

しかし、トルコの経済は低迷し、多くがドイツに残ることを選び、家族も呼び寄せた。こうして、ドイツ社会と融和することのないトルコ人共同体が生まれた。疎外された自分たちを守るには助け合いが欠かせない。それを担ったのはイスラム教の理念だった。

一方、本国トルコでは建国以来、政府が強制的に公の場からイスラムを排除してきた。イスラムを掲げる政党は、世俗主義の守護者を自任する軍によるクーデターや解党命令で排除された。そんなイスラム政党のトルコ国内での活動を支えたのが、ドイツのトルコ人社会に根を張ったイスラム組織だった。

そして、イスラム政党は非合法化されても新たな名前で生き延び、経済の遅れた地方や都市郊外のスラムで活動を続けて、支持を広げてきた。その流れをくむのがエルドアン氏である。2003年に首相になって以来、権力の座につき続けている。

いまドイツに住むトルコ系住民は300万近い。トルコで4番目に大きな選挙区とも言われる。エルドアン氏がここを重視し、高い支持を得ているのも、過去の流れを見れば当然だろう。実際、憲法改正の是非を問う国民投票では、トルコ本国よりも賛成の比率が高かった。

ドイツ・ケルンで、エルドアン・トルコ大統領の訪問を歓迎するデモを行う支持者たち=2014年5月、ロイター

ドイツ人にとっては、よその国の政治が自国に持ち込まれているという感覚を持っても不思議はない。それがさらにトルコ系への不信を生む。トルコ人社会がドイツの政治に影響をもたらしているのは確かだ。だが同時に、トルコ本国の世俗主義の変容にも重要な役割を果たしている。

国境を超えて人が移動する時代。中東の動きを中東域内だけでは理解することはできないのである。