スイスのベルン大学教授を務めるクリスチャン・ヨプケ氏は、欧州を代表する社会学者として広く知られ、特にシティズンシップ(市民権=注1)に関する研究の世界的な権威と位置づけられる。代表作は、2010年に出した「軽いシティズンシップ」(邦訳は岩波書店)。移民の受け入れを契機として、欧州各国が民族や文化といったアイデンティティーではなく、リベラルで普遍的な価値観を擁する国家として自らを定義していく姿を描き、人権や民主主義に基づく開かれた世界の将来像を示して、大きな議論を呼んだ。
今、世界は一見、その反対の方向に進んでいるように感じられる。ポピュリズムが大手を振り、テロと難民危機が欧州を揺るがし、国境管理の徹底化を求める声が上がる。「壁をつくる」と打ち上げた米国のトランプ大統領が喝采を集める。重苦しい保護主義とナショナリズムが世界を覆う時代に入ったようでもある。
――ナショナリズム、ポピュリズムが世界に蔓延(まんえん)し、反移民感情も高まっているように見えます。「軽いシティズンシップ」で、あなたが展望した包摂的でリベラルな社会は、なお可能でしょうか。
確かに、移民を巡る問題はいくつか持ち上がっています。トランプ米大統領はイスラム諸国からの入国を禁止したり、メキシコとの間に壁をつくろうとしたりしました。英国が欧州連合(EU)から離脱すると決定した背景にあるのも、移民問題です。ただ、それが各国のシティズンシップのあり方に影響を与えるには至っていないと思います。ポピュリストたちは移民や移民法をしきりに攻撃しますが、その主張に応じてシティズンシップの取得を厳格化する動きは、まだ見られません。
欧州各国でシティズンシップを剝奪(はくだつ)しようとする動きは、確かに見られます。特に、風刺週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃事件とパリ同時多発テロに見舞われたフランスでは、オランド前政権が、二重国籍者からフランスのシティズンシップを奪うことを可能にする憲法改正を目指しました。これは「フランス国籍しか持たず、シティズンシップを奪われる心配のない大多数の『フランス民族』」と、「奪われる恐れのある二重国籍の2級市民、つまり大部分はイスラム教徒」に国民を分けることになる。もっとも、この狙いには与党からも批判の声が上がり、政府は結局、この改正案を断念しました。
――ポピュリズムを脅威と受け止める声は強いようですが。
彼らの伸長については、実際にはまだ限界があると考えます。フランスではマクロンが大統領選でルペンを破りました。オランダの総選挙でも、ポピュリスト政党の自由党は思ったほど伸びなかった。西欧の体制は依然として、その基礎をリベラルな立憲体制に置き続けており、心配するほど不安定ではありません。
カナダのように、ハーパー保守政権時代にナショナリズムに傾倒したのに、リベラルなトルドー政権に代わって揺り戻した例もあります。ポピュリズムが政治状況を根底から変えたとは思えません。全体構造は以前と基本的に同じです。
――ハンガリーやポーランドの例はどうでしょう。EU加盟国であるにもかかわらず、政権は権威的傾向を強め、言論の自由や司法の独立を脅かしています。
旧東欧諸国の新しいナショナリズムは、むしろ共産主義の後遺症がいまだ癒やされていないからと考えた方がいいでしょう。これらの国々の社会には、西欧諸国にあるようなリベラルな伝統や制度がまだ根付いていません。問題は、EUの対応次第です。法の支配や憲法上の基本的な原則を旧東欧諸国が尊重していないのは明らかで、こうした現状をEUが見逃したままにするとは思えません。何らかの介入をするでしょう。
ポーランドもハンガリーも、広々とした農村地域を抱えており、EUから多くの援助を受けています。つまり、EUに完全に依存しているのです。それでいて、欧州統合の原則を守ろうとしない。EUが黙っているわけはありません。
――米国はどうでしょうか。トランプ政権が好き勝手をしているように見えます。
今までの状況を見ると、トランプの様々な策謀に対して、リベラルな諸制度はむしろよく持ちこたえているといえます。ただ、トランプは長期的に、ある種の家族独裁体制をつくろうとしているのかもしれません。すでに再選を視野に入れ、娘に政権を引き継ごうとしています。これは確かに気がかりです。こんな公私混同ぶりは、米国の歴史上一度もありません。
問題なのは、米国で民主主義が損なわれているというより、むしろ法制度の欠如にあります。トランプのような億万長者の帝王が政権につくこと自体を、米国はそもそも想定していなかった。だから、彼の狙いに対応するだけの法律が十分整備できていないのです。
一つの焦点は米連邦最高裁です。今後、高齢の判事が引退すれば、トランプの意をくむ人物が任命されるでしょう。そうして最高裁が右旋回すると、極めて危険です(注2)。
注1:シティズンシップは、国家など政治的な共同体のメンバーが持つ資格や権利を指し、通常「市民権」と訳される。日本では「国籍」としばしば同一視されるが、欧州では欧州連合(EU)のシティズンシップの存在も大きく、国の枠組みが必ずしも、資格や権利の枠組みとは一致しない。
注2:このインタビューは5月だったが、その後6月末、「中間派」のアンソニー・ケネディ判事(81)が引退を表明し、トランプ米大統領は7月、保守派のブレット・カバノー連邦控訴裁判事を後任に指名した。
Christian Joppke 1959年、ドイツ・ハノーバー近郊に生まれる。フランクフルト大学で思想家ユルゲン・ハーバーマスに師事し、米南カリフォルニア大学准教授、欧州大学院大学教授、パリ・アメリカン大学教授などを経て現職。著書に「軽いシティズンシップ 市民、外国人、リベラリズムのゆくえ」(遠藤乾、佐藤崇子、井口保宏、宮井健志訳、岩波書店)、「ヴェール論争 リベラリズムの試練」(伊藤豊、長谷川一年、竹島博之訳、法政大学出版会)など。
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