渋谷からパリへ 難民の少年が「身を守る手段」だったファッションを希望に変える
矢を肩に受けた黒髪の女性が立ち上がり、褐色の肌の女性が鎖から解かれて悠然と歩きはじめる。彼女たちの視線の先には、かつて駅舎で使われていたという大時計がある。抑圧から解き放たれた世界の女性たちがつくる、新しい時代を予感させる。
幻想的な1分半ほどの映像はファッションデザイナー渋谷ザニー(41)のブランド「ZARNY」のプロモーションビデオだ。本人はこれを「オートクチュールの映像化」と呼ぶ。
舞台はパリのオルセー美術館。モデルたちがまとうドレスは、ジャンバティスト・カルポーの彫刻「天球を支える世界の四方位」をモチーフにしたザニーの作品だ。
オートクチュールとは、本来はパリの限られたブランドだけがその名称を使える最高級注文服のこと。オートクチュールのショーで作品を発表することは、ブランドの芸術性や技術力の高さを示すことになる。
そんなファッション界の頂点に向かう一歩としてザニーが考えたのが、オルセーを貸し切りにした映像プロジェクトだった。
「いわば、僕の『華麗なる叫び』かな」。ザニーはおどけた。「東南アジアの一国で生まれた少年が、日本に渡ってデザイナーになり、いまパリにいるぞっていう」
この映像プロジェクトには、重要な意味がもう一つある。
ドレスの縫製を担ったのは、難民の自立を支援するアトリエ「エスペロ・フランス」に所属する、アフガニスタンやイラクから逃れてきた職人たちだ。
ザニーにとって、これは特別なことだ。彼自身も難民だったからだ。
1985年、ザニーはビルマ(現・ミャンマー)の裕福な家庭で生まれた。
母親のティダ(62)はおしゃれ好きで社会主義体制の下、ミシンで自分のドレスを縫っていた。縫製の腕をいかし、いまもザニーの仕事を手伝っている。
「ザニーは小さい頃から絵を描くのが好きでした」。大学教授だった祖父が、自宅で絵を描いているのを見ながら、色鉛筆でお絵描きをした。すでに服に興味があったのか、母親のドレスをスケッチすることも多かった。
父親は学生時代から民主化運動にかかわっていたため、1988年の軍事クーデター後、弾圧を逃れるためタイなどを経由して東京に渡った。ザニーは8歳の時に母親と共に、父親を追って日本に来た。
日本語も文化もまったく分からない少年にとって、きっちり身なりを整えることは「いじめから身を守る手段」でもあった。
10代後半になると、若者文化の中心地である渋谷に自然と足が向いた。「ガングロ」や「ギャル男」など、独特のファッションが全盛だった時代。細身でエキゾチックなザニーの雰囲気は、街にぴったりとはまった。大学生の時には、渋谷系ファッション雑誌のモデルとして活動するようになった。
日本国籍を取得して、日本的な名字をつけようと考えた時、まず思い浮かんだのが「渋谷」だった。
モデルや販売員をしながら、渋谷から「坂の上」の表参道や青山でも人脈を広げ、デザインの仕事を得るようになった。まだ注目されていなかった韓国系ファッションにも携わった。
専門学校で学んだわけでも、有名デザイナーに師事したわけでもない。軍服が支配する国から来た若者の存在は、業界では異端だった。「当時は差別もあった」と、ザニーは言う。「それはミャンマー出身とか難民だからとかではなくて、『渋谷系ファッションの子でしょ』っていう目かな」
だが、2007年のクリスマスイブ。渋谷のスクランブル交差点でのこと。
ふと目に入った若い男女のカップルが、自分がデザインした服を着ていたのだ。それぞれ別のブランドだった。「誰がデザインしたかも分からないのに、2人とも気に入って買ってくれた。それで、目がさめたんです。僕を認めてくれるお客さまがいるのなら、業界の評価なんて大した問題じゃないって」
その年、もう一つ大きな出来事があった。ミャンマーでの大規模な反政府デモだ。立ち上がった僧侶たちを、軍が武力で弾圧する映像に衝撃を受けた。それまで「色をつけられたくない」とあまり出さなかった難民という経歴を、積極的に発信することにした。
軍事政権に自宅軟禁されていた民主化指導者のアウンサンスーチーが10年に解放されると、民族衣装のロンジーを特別にデザインして贈った。スーチーは2年後、その一着をまとってノーベル平和賞の受賞演説の舞台に立った。
スーチーが来日した際は迎賓館での晩餐会に招かれた。「ずっとミャンマーを離れているのに、きれいなミャンマー語でお話しされて、尊敬します」。そんな言葉をかけられた。両親と共に祖国を離れたことで、心の底にあった罪悪感が、その一言で救われた気がした。
ブライダルファッションの第一人者、故・桂由美の下でも働き、高級服やジュエリーもデザインするようになったザニーは、当時首相だった安倍晋三夫妻や皇族の衣装も手がけるようになり、実績を重ねていく。祖国ミャンマーも民主化に向けて歩み始め、一時帰国も果たした。
しかし、試練の時期が来る。
20年のコロナ禍で、結婚式やパーティーのキャンセルが全国的に相次ぎ、仕事が壊滅的に減った。
翌年にはミャンマーで軍事クーデターが起き、再び祖国は帰れぬ国となった。その翌年には、首相時代から目をかけてくれた安倍が暗殺された。
「すべて失った。僕に何が残っていますか」
再起をかけて向かったのが、ファッションの都パリだった。24年のパリ五輪をきっかけに、エスペロ・フランスとつながった。ファッション業界で自分と同じ難民たちが働く姿を見て、初めて仲間を得た気がした。
「いまは、難民という過去を、むしろ自分の個性の一つだと思える。国を追われた両親から、世界に飛び立つための翼を授かったんだと考えています」
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われ、山本耀司や川久保玲といったデザイナーがパリに衝撃を与えた時代と、いまは違う。日本はもはや特別な国ではないし、ましてや自分のルーツは東南アジアにある。
「でも、やるしかない。パリでは素晴らしい仲間もできたので、きっとやれる」
いつかパリでオートクチュール・コレクションでショーを開きたい。その目標に向かって人脈や販路の開拓にいそしんでいる。
パリで成功すれば、後継者や職人がいなくなった日本でも、「エスペロ」のような工房で、難民や移民とメイド・イン・ジャパンを作りたいという。
ファッション誌の記者として長くザニーを見てきた相川克彦(63)は言う。「渋谷のストリートファッションの時から、その時代の気分を服に落とし込む力、敏感なセンスを持ち合わせていたんじゃないか」
そして、こう期待を込めた。「彼のようにいろんな経験を積んで視野を広げた人が、服が売れないと言われる時代に、新しい風を吹き込み、日本のファッションがまた注目されるきっかけをつくってくれると思う」(敬称略)