きっかけは中学時代の「お古の毛布」 トランプショックの世界に問う新たな保健援助
2025年春、稲岡恵美(55)はトランプショックの渦中にいた。米大統領の脱退表明により、最大の資金拠出国を失った世界保健機関(WHO)は突如、職員の新規採用を凍結。4月からの採用が決まり、外務省の退職を決めたばかりだった稲岡は、言葉を失った。
「これからどうしようか……」
国際保健の専門家として、国内外の国際協力機関や現場を渡り歩いてきた。適切な保健医療を世界中の誰もが支払い可能な費用で受けられる、「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)」の実現を目指したい。日本政府がWHOなどと連携し、途上国支援の拠点「UHCナレッジハブ」をつくろうとしていたことから、「これまでのキャリアの集大成に」と退路を断って移籍しようとした矢先だった。
世界では、人口80億人のうち46億人が必要な保健サービスを受けられていない。この状況からの脱却を支援し、「UHC」を達成することは、国民皆保険制度を備える日本がG7などの外交の場で掲げる理念でもある。その達成のため、日本政府が予算の組み方や医療制度の設計の方法などについて、途上国の行政官らと共に考える機会をつくり実現を支援する。その取り組みがUHCナレッジハブだ。
自国第一主義を掲げる国が相次ぐなかで国際保健分野でも、日本を含めた先進国の資金拠出は減っている。そんな中、ナレッジハブは資金や物を送るのではなく、知見を共有することで自立を助けようとする新たな試みの場でもある。
私はこれまでどう歩んできたのか。なにができるのか。中ぶらりんの身になった稲岡は、迷いの中で、とことん自分を見つめ直した。
国際援助の道を歩んだ原点は、中学生だった1980年代、テレビで毎日のように目にしていたエチオピアの大飢饉(ききん)のニュースにある。
当時、生徒会の役員をしていた。現地に古い毛布を送る取り組みがあると知って、校内で寄付を呼びかけた。奔走していると、ある先生が聞いた。「なんで使い古しの毛布なのかな」
この一言が、稲岡の心に長く残っていく。
1989年に神戸大学に進学すると、社会学や開発経済学を学びながら国際交流団体の活動に没頭。まだ見ぬ土地への好奇心に駆られ、バックパッカーとしても世界を回った。インド、エジプト……。どんなに貧しく、衛生環境が悪い国でも、日本と変わらず、食べ、寝て、互いにいたわりながら生きる人たちがいる。その姿が目に焼き付いた。「支援する側とされる側という単純な線引きでは、目の前の人たちの暮らしを捉えきれない」
学生時代に中東を一緒に旅した親友の山本真由美(56)の記憶には「背伸びをして150センチ」という身体で歩き回る稲岡の姿がある。
シリアのジュースの屋台で一日中フルーツを絞らせてもらったり、チャパティ(薄焼きのパン)の行商について回ったり。見知らぬ人に声をかける時は、自然な笑顔が相手の緊張をほぐした。日本語でも英語でも伝えたいことを一生懸命に話すのは昔も今も変わらない。「ちっちゃい体にものすごいエネルギーを秘めている」
卒業後は、アフリカで保健医療分野の支援をする外資系製薬会社に就職。だが希望する社会貢献の部署にはなかなか配属されない。3年で会社を辞めると、東京大の大学院に進学。生まれ育った関西を初めて離れ、奨学金を借りて20代後半を国際保健医療の勉強とイエメンでのフィールドワークに費やした。
修士課程を卒業した28歳から、稲岡は一つの場所にとどまることのないキャリアを歩む。国際協力機構(JICA)のプロジェクトをはじめ、国内外の国際協力機関で働き、途上国での感染症対策や母子保健を支援した。
「政策を動かすために必要な経験を積みたい」と、外務省に中途入省したのは35歳の時だ。「国際保健政策室」の立ち上げメンバーとなり、専門官としてアフリカ開発会議(TICAD)やG20といった外交行事があれば、テーマに「国際保健」を入れ込もうと省内や政府関係者との調整に奔走した。
だが、感染症対策を担う官民連携基金に出向してジュネーブで働いていた2024年、一つの思いが強くなった。各国で国際保健への援助削減の流れが起きる中、「UHC」の推進を掲げてきた日本が今後具体的にどんな支援を展開するか、真価が問われているのではないか。
その時、よみがえったのが寄付に奔走した中学時代の記憶だった。「豊かな北の人が貧しい南の人に物をあげる、という従来の支援を途上国はもう望んでいない」。お金ではなく、制度を動かすための知見を共有しようというナレッジハブの試みは、稲岡にとって「使い古しの毛布」を超えるための手段だった。
支援対象国の担当者と向き合いながら、彼らの主体的な改革を支援する。その現場に関わりたい。そう考え、ナレッジハブの実務を担う、国際機関への移籍を決断した。
WHOの採用をめぐる混乱で次の道を模索する中では、同僚や身近な人たちの生きざまが支えになった。
紛争地で活動する国際赤十字社の友人からは「私は一つの国から帰ってきたら、最初の1カ月は寝ているだけ」と打ち明けられた。これだけ精力的に活動している人でも、休む時は必要なのだと知ってほっとした。
兄弟の病気、親の介護、子どもの不登校、職場での衝突。そんな状況の下でも頑張る友人らの話を聞いていると「こんなことで悩んでちゃいけないな」と力がわいてきた。
兵庫県の農村部に生まれ育った稲岡は、高齢化の進む地方の現状も目の当たりにしていた。介護や福祉の分野で、課題解決にかかわれる民間企業に就職しようか。そんな気持ちに傾いたこともあった。
そんな折、世界銀行から同じナレッジハブの仕事を担当する求人が出たことで、携わる道が残された。「政府は何を考え、国際機関としてどう動かないといけないのか、途上国からその動きがどう見えるのか。それぞれの立場で見てきた自分の経験を最大限に生かして、意味のあるものにしなければ」。今、そう思っている。
稲岡にとっての「師匠」は、これまでに出会った、「現場で物を動かす、肩書ではないすごい人」たちだ。
たとえばザンビアの保健所で働いている現地の「おばちゃん」は、稲岡が栄養教育をしたいと言うと、誰を動かしたらいいのかを教えてくれた。どんな呼びかけなら皆が集まってくれるか。チャイを出すタイミングは。コミュニティーのことを何から何まで熟知している人たちの力が発揮されて初めて、支援は根づく。そんな人たちを現地で育てる基盤づくりをしたい、とずっと思い続けている。
「私自身に特別な能力はないけれど」と口にする稲岡は、こう話す。「この仕事は、これまで関わってきた人たちとのつながりの集大成でもある。途上国が本当に求める援助をする。それを通して、日本もより国際的な視点を持てるようになる。そんな新時代の対等な援助を実践したい。そのために歩み続けたい」