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「見える化」したと思った争点化 日系移民1.5世の私の今の想いは

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明治大学国際日本学部のピニロス・マツダ・デレク・ケンジ特任准教授は「私たちは人口の3%に過ぎないかもしれないけれど、日本人と同じ生活者です」と話した=2026年2月19日、東京都千代田区、藤崎麻里撮影

日本でも「移民」が選挙で争点化されるようになってきている。そうした事態を当事者はどうみているのか。移民1.5世の日系ペルー人で、異文化間教育が専門の明治大学国際日本学部のピニロス・マツダ・デレク・ケンジ特任准教授(37)に、話を聞いた。

両親がデカセギに 日本語ゼロで来日

父は日系ペルー人で、大学卒業後すぐに日本で「デカセギ」として働き始めました。本当はドイツの大学院進学が決まっていたのですが、僕が生まれることになり、仕送り目的で、日本で働くことを選択したそうです。

同じく日系ペルー人の母も追って日本で働きはじめ、1998年、私が10歳のときに弟、妹とともに来日し、大阪で暮らし始めました。それ以来、28年、日本に住んでいます。

日系ペルー人のピニロス・マツダ・デレク・ケンジさんが来日当時、両親や弟、妹とともに撮影した写真。後ろに立っているのが、ピニロス・マツダ・デレク・ケンジさん=本人提供

来日当初は、私は日本語がまったくできませんでしたが、一から学び、学校の先生たちにも恵まれて、高校、大学、大学院と進学しました。

争点化に嬉しさも 透明な存在から一転

昨夏の参院選で、移民にかかわる議論が始まったとき、実は驚かれるのですが、最初はうれしいという思いもあったのです。日本社会では制度は整えられていっても、自分たちの存在は透明で、語られずにきていたと思うのです。初めて「見える化」した、と思いました。

でも次第にSNSで、根拠のないうわさに流される人たちの声が目立ってしまって、あれ?と。SNSで展開されていた二項対立的な議論は、事実に基づいて、思いやりをもって対話するそれまでの日本のイメージと違いました。

「郷に入れば郷に従え」は日本だけではない

新参者が自分たちと違うやり方をしていると思った時、「郷に入れば郷に従え」と考える人たちがいるのは、日本だけではありません。特に日本は積み木をきれいにつみあげるように、社会をつくっているだけに、違うバックグラウンドの人が入ることで壊れる怖さがあるのだろうな、ということはわかります。

外国人も多様で、こうして話していることも私自身の経験や見解に基づき、特定の立場や多くの方々を代表するものではありませんが、私自身は日本で暮らす外国人に対し、日本社会のルールを伝えることは必要だと思っています。

移民の争点化 政治的アクターの言説が寄与

昨夏の争点化の過程で、政治的アクターの言説は一定の影響力をもったと考えています。政党や政治家が公然と「外国人」や「移民」を政策上の課題として位置づけるようになり、社会にあいまいにあった不安や不満が、具体的な対象へと結びつけられる契機になった側面があるのではないでしょうか。

明治大学国際日本学部のピニロス・マツダ・デレク・ケンジ特任准教授は、在日ペルー人のコミュニティーではスペイン語のラジオ番組やエスニック雑誌がある、と指摘。「専門家もかかわって日本社会のルールや教育について発信しているが、十分届いているとは言えない。情報がもっと行き届くシステムを作らないといけないと思います」と話した=2026年2月19日、東京都千代田区、藤崎麻里撮影

同時に、「外国人」という特定の集団にばかり焦点があたると、複雑な社会問題の因果関係が単純化されてしまうリスクがあります。経済の停滞、地域の過疎化、社会保障への不安といった構造的な問題は、多層的な要因で生じています。

欧米の移民問題 国家のありようを映し出す鏡

欧米では経済的な不安や治安問題、アイデンティティーの揺らぎが移民政策と結びつけて語られる傾向があります。こうした言説はポピュリズム的な政治的手法と結びつきやすく、「国民」と「外部」の境界が強調されてきました。移民問題は、国家の在り方や民主主義の方向性を映し出す鏡のような存在になっています。

本来、日本は、移民の歴史的な背景や位置づけが欧米と大きく異なります。急に争点化したのは、日本の経済的な不安、人口減少、地方社会の変容と、海外で見られる言説が共鳴しやすい状況が生まれているからではないでしょうか。

非正規滞在の外国人をどう考えるか 若いころには葛藤も

この問題で、加えて申し上げたいのは、難民という背景を持つ方々や、非正規滞在など、日本国内で不安定な在留状況に置かれている方々の存在です。中には、日本語を学び、働く意欲や能力が十分にあるにもかかわらず、制度上の制約によって就労の機会を得られない人々もいます。

実は、私自身も若い頃には葛藤がありました。私の両親は多くの手続きを経て来日し、言葉の壁や不安定な労働環境の中で働きながら、税金や社会保険料、年金を納めてきました。その姿を見てきたからこそ、「法の手続きを経てきた人と、そうでない人を同じように扱ってよいのか」という疑問を抱いたこともあります。

しかし、研究を通じて多様な当事者の声に触れる中で、現実は必ずしも単純ではないことを知りました。不安定な在留状況に置かれている人々の中にも、日本で働き、学び、この社会に貢献したいと強く願っている人が数多くいます。そこには、制度の複雑さや国際情勢、情報へのアクセスの格差など、さまざまな構造的な要因が重なっていました。

明治大学国際日本学部のピニロス・マツダ デレク・ケンジ特任准教授=本人提供

それでもなお、正直に申し上げれば、今でも心の中に葛藤が残ることがあります。社会の中で多くの責任を担いながら生活している人々がいる一方で、人権や包摂性を求めて日本に来たにもかかわらず、日本の社会や文化に対する理解や尊重が十分でないように見える場面に接すると、複雑な思いを抱くこともあります。

ただ、そのような感情を単純に善悪の問題として片付けるのではなく、なぜそのような摩擦や認識のずれが生まれるのかを丁寧に考えていくことこそが、多様な背景を持つ一人の研究者としての役割ではないかとも感じています。異なる背景や経験を持つ人々が同じ社会の中で共に生きるためには、制度のあり方だけでなく、相互理解や責任のあり方についても、より深く議論していく必要があると考えています。

法を守ることと排除を強めることは必ずしも同義ではない

また、その子どもたちの中には、日本で生まれ育ち、日本社会しか知らずに成長している若者もいます。日本語で学び、日本社会の中で十分に力を発揮できる可能性を持つ存在です。彼らを一括りにして「問題」として捉えることが、本当に社会全体の利益につながるのかは慎重に考える必要があります。

もちろん、法の枠組みは社会の秩序を維持するために不可欠です。しかし、法を守ることと排除を強めることは必ずしも同義ではありません。制度の隙間に置かれている人々をどう社会の中に位置づけるのかを考えることは、秩序を弱めるのではなく、むしろ持続可能な形で社会の基盤そのものを支える試みだと私は考えるようになりました。

誰かを線の外に置くことで、一時的な安心は得られるかもしれませんが、長期的に社会の分断を深める可能性があります。すでに日本社会に暮らす人々には、包摂を前提とした制度設計へとかじを切ることが、人口減少社会を迎える日本にとって現実的で、建設的な選択肢ではないでしょうか。ともに社会をつくる主体としてどう関わってもらえるか。その問いこそが、私たちに今求められる議論だと考えています。