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ルーツは在日、国籍は日本の私 両方に壁を感じながら、多文化を生きる

World Now 更新日: 公開日:
東上野の商店街。一歩奥に入ると、ちょうちんが掲げられていた=東京都台東区、藤崎麻里撮影

■「夢をかなえてほしい」と一家で帰化

年末の東京・上野は新年を迎える準備で、買い物客がごった返す。埼玉県に住む金村さんの家族は、アメ横でマグロの刺し身を買った後、昭和通りをはさんで向かい側にある商店街にも足を伸ばすのが恒例だった。角にあるスーパー「まるきん」で買うのはチャンジャや酢みそ。

「子どもの頃はアメ横の後はみんなここに来て買い物していると思っていた」と金村さん。それが在日だったからだと気づいたのは少したってからだった。商店街の始まりは戦後の混乱期とされ、都内で最も古いコリアンタウンといわれる。今は「東上野コリアンタウン」と書かれたちょうちんが揺れる。

子どもの頃から来ている「まるきん」。店内に入ると、「ここは酢みそがおいしいんです」などと次々と店オリジナルの商品を教えてくれた=東京都台東区、藤崎麻里撮影

祖父母は戦前から戦後にかけて、済州島、忠清南道、ソウルなどから日本に渡り、結婚した。父と母はそれぞれ日本で生まれ育ち、在日系の金融機関で職場結婚し、金村さんが生まれた。

幼少時代、金村さんが「警察官になりたい」と言った。それを聞いた母が、一家で日本国籍を取ることを決めた。警察官になるには、日本国籍が必要だからだ。実は母もやりたい仕事があったが、当時は国籍を理由に働けなかった。「子どもには自由に夢を見られるようにしてあげたい」という親心があった。

■気づいた「違い」、差別に同調も

東上野コリアンタウン。路地側にも焼き肉店があった=東京都台東区、藤崎麻里撮影

日本語読みができる「金村詩恩」という名前を持ち、日本国籍もとった。でも公立小学校にあがると、周囲との「違い」に気づくようになった。差別があると感じる日本社会で、どう生きるかが一つ目の壁だった。

最初のきっかけは卵焼き。小学1年の遠足で、友達と卵焼きを交換し、驚いた。甘かったからだ。金村さんの友達も驚いた。金村家の卵焼きは甘くなく、ネギ入りで、ごま油で焼かれていた。「あれ? 外では普通ではないのかな」。そんなことが度々あった。伯母を「コモ」と言っても、通じない。「日本では言わないんだな」と、次第に会得していった。

十代の頃には、冬ソナブームなど、韓流のドラマや小説に人気が出た。在日社会を描いた小説「GO」や映画「パッチギ!」もヒットした。親世代はコンビニでキムチが売られるようになったことを「隔世の感」と言った。

でも、家族も自分も在日だということをあえて言わなかった。高校には、近くの朝鮮学校をネガティブに言う教師もいた。社会のまなざしを意識し、批判の矛先が向かないよう、教師に同調する発言をしたことすらあった。

「在日コリアン」だということを公言するようになったのは、大学時代。文化人類学を学んでからだ。ほかの国のマイノリティーの話を読むにつれ、「自分も言ってよいのでは」と気づいた。

「在日」を名乗り、民族教育などを学ぶ勉強会に出たときに、2つ目となる在日社会での壁があることに気付いた。「あるべき姿」を求められることに、疎外感を感じた。

日本国籍だというと、毎回のように「なぜ帰化したのか」と尋ねられた。「在日社会で認められないと感じた。母が自分のために決めてくれたことだったのに」との思いがくすぶった。

大学では、韓国・釜山にも留学した。そこで初めて焼き肉は韓国のものではなく、在日コリアンが日本で独自に培った文化だと知った。なじんだ味を通じて、やっぱり自分は「在日」だと思ったという=東京都台東区、藤崎麻里撮影

■結束のために必要だったアイデンティティー

在日1世の父と2世の母をもち、自らも日本国籍を取得した東洋大学教授(社会学)の井沢泰樹(金泰泳)さん(57)はこう語る。「在日の歴史は日本の植民地支配と差別の歴史との闘いが大きく影響している。日本国籍をとることは『差別する国の構成員になるということであり、差別する側におもねり敗北すること』と受け取られてきたことがある」

さらに朝鮮半島が韓国と北朝鮮に分断され、朝鮮籍に加えて韓国籍ができ、民族団体も韓国系の在日本大韓民国民団(民団)と、北朝鮮と関係のある在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)ができた。植民地支配の歴史との関わりは人によって異なり、時を重ねて経験もさらに多様になった。

親世代の2世は、外国人登録証への指紋押印や、就職の国籍制限の問題に直面し、撤廃運動をしながら権利を勝ち取ってきた。金村さんは「まとまるための『在日』というアイデンティティーが今以上に必要だったのでしょう」と推察する。

東洋大学教授の井沢泰樹(金泰泳)さんは「日本社会は差別にあらがって在日コリアンであることを前面に出して生きることを要求することが多い。だがジェンダーと同じで、時代や社会によって変わる。『らしさ』からの解放も重要だ」と指摘する=本人提供

それに対し、自らは以前より権利が認められた世代だからこそ、そのアイデンティティーにしばられていると感じるのかもしれない、とも思う。ただ、「朝鮮か韓国の国籍を保持し、民族の教育を受け、朝鮮半島の言葉や文化を学ぶ人が『模範的』とする風潮に息苦しさも感じる」という。

2017年、金村さんは、匿名で書いてきたブログをまとめて本を出版するときに、実名を出すことを選んだ。題名も「私のエッジから観ている風景―日本籍で、在日コリアンで」と、あえて国籍を打ち出した。「在日のなかの多様性をもっと感じられるようにしていきたい」

■増える「ルーツは在日、国籍は日本」

画一的な像を描くのは、在日社会だけではない。メディアが「在日コリアン」を報じるときも、韓国籍や朝鮮籍をもち、本名を名乗っている人が登場することが多い。日本名を使っていた人が取材を受けたいと思わなかったということもあるだろうし、こうした表で見える活動をしている人の多くが本名を名乗る人だったという事情もある。ただ実際には、金村さんのように日本国籍をもち、日本名を名乗っている人が増えている。

法務省によれば、特別永住資格をもつ韓国籍を持つ人は2019年末には15年末比で1割減の約28万人で、朝鮮籍を持つ人は同年比約2割弱減の約2万8千人。高齢化もあるが、日本国籍を取る人も毎年、数千人いる。在日本大韓民国民団(民団)の担当者は「在日同士の結婚が1割を切るなかで、1985年の国籍法改正でいずれかが日本人の親から生まれれば自動的に日本国籍を得られるようになり、日本国籍を持って生まれてくる在日ルーツの子が増えている」と話す。

名前をめぐっても、日本名を使う在日コリアンが多いとされ、大阪市が2002年におこなった「外国籍住民施策検討に係る生活意識等調査」では、韓国・朝鮮籍者でも8割以上がふだん日本名を名乗っていることが明らかになっている。

■在日コリアンを移民とみる視点

日本では1980年前後からインドシナ難民、中国残留邦人とその家族、と海外にルーツをもつ人は徐々に増えていった。さらに政府は労働力不足を背景に、入管法を改正し、「定住者」という在留資格を新設。1990年から日系2世や3世も受け入れた。

1991年に生まれた金村さんも、学校の教室には日系人や中国人の同級生がいた。「歴史が違うが、日本以外の文化が家の中にある点で近しさも感じた。自分たちだけではない」。それが「上の世代とは違う感覚かも」と感じている。

国士舘大学の鈴木江理子教授(移民政策)は、在日コリアンを移民と位置づける議論を展開している。植民地支配の歴史や、50年以上も日本に暮らしているにもかかわらず「移民」と言われることに違和感や反発を抱く当事者もいる。それでも鈴木教授は「個々人が自己をどのように規定し、アイデンティティを選択するかを尊重しつつ、政策的に在日を含めて移民を広くとらえることで、外国人参政権などの権利、(本人が望む場合には対応できるよう)母語・母文化の保障に関する議論をすすめるべきだ」と話す。

国士舘大学の鈴木江理子教授は研究だけではなく、NPO人法人移住者と連帯する全国ネットワーク副代表理事として支援活動にも携わっている=本人提供

在日を移民と位置づける見方について、金村さんは「広い視点だ」と思った。「歴史が長い在日がニューカマーに伝えられることもあるのでは」とも。

在日コリアンを批判するヘイトなど、差別も続く。世界では排外主義も。こうした問題に対し、最近はニューカマーやミックスの若者たちと開くイベントで体験や考えを発信するようになった。

みずからもニューカマーと関わりを深めるなかで「日本社会とどう向き合うか」「在日社会で認められるか」といった二項対立にとらわれられにくくなった。「今は外国人の団体があっても、日本人を中心にニューカマーを助けたり、エスニシティーの自助組織だったりすることが多い。いつか移民当事者同士がつながって新しい枠組みを作っていけたら」