負の歴史に向き合い継承するフィリピンの図書館
フィリピンの首都マニラに隣接するケソン市の一角に、マルコス独裁政権(1965~1986年)に抗して闘った人々を顕彰する像と、闘争で命を落とした人々の名を刻んだ追悼の壁がある。にぎやかな市内の一角で、そこだけ静かな空気が流れている。
これらは民間の「バンタヨグ・ナン・マガ・バヤーニ」(タガログ語で「英雄たちの記念碑」)財団が建立したものだ。敷地内には図書館と博物館があり、サラ・フェルディネスさん(71)は20年前から図書館でボランティアをしている。
彼女も独裁政権に立ち向かった一人だ。戒厳令時代(1972~1981年)、労働組合や女性団体などで働き、政権を批判する活動をしていたが、逮捕され拷問を受けた。残酷な拷問の影響で「耳が聞こえづらくなってしまった」という。今は週に5日、書籍や史料を目録にする作業をしている。「ここには戒厳令下の歴史に関する書物が多くある。何が起きたのかを次世代に伝えていきたい」とフェルディネスさんはいう。
財団は1986年に民衆が蜂起した「ピープルパワー革命」でマルコス政権が倒れた直後に設立された。像と壁の完成後、その時代の「記録」も残そうと博物館と図書館も整備された。図書館には書籍のほか、市民運動のパンフレットや政府の監視をかいくぐって出された新聞や雑誌など、当時の様子がわかる史料が寄贈、収蔵されている。ボランティアが紙の史料をスキャンし、デジタル化してウェブ上にも公開している。
2015年から財団の事務局長を務めるマリアクリスティナ・V・ロドリゲスさん(72)もまた、独裁政権と闘った活動家だ。「財団の目的は当初、記念碑を建てることだったが、それだけでは何があったかを伝えきれないとわかった。図書館は、経験を永続的に保存、記録するうえで重要だ」と語る。
さらに「現在のように、SNSで偽情報やフェイクニュースが氾濫(はんらん)する中では、一次史料は価値があると感じる」とロドリゲスさんはいう。
図書館でボランティアとして司書をするジョセリン・ラドラッドさん(71)は「私たちは単に図書館を管理しているだけではなく、歴史を継承し、民主主義そのものを守っていると思っている」と話す。
戒厳令下の記録や史料、書籍を収集している政府系の機関もある。2013年に設立された「人権侵害被害者記念委員会」は、マルコス独裁政権下で弾圧された犠牲者を追悼し、その記録を公的に保存するため、法律に基づいて設置された組織だ。
この委員会は犠牲者の名簿を作成したり、証言を記録したりしている。弾圧の様子がわかる絵や映像、拷問のための道具などを展示した博物館と、各種書籍を所蔵した図書館も付設。大学や高校と連携したワークショップなど教育にも力を入れている。
「被害者の証言も大事だが、それだけでは、より広い背景を理解することはできない。図書館はその時代や社会、歴史についての出版物を通じて、被害が生じた要因を理解する手助けとなる」と、事務局長代理のローレンスチャールズ・E・サラザールさんはいう。「戒厳令時代を支持する立場のものも含め、あらゆる視点の資料を収集している。その時代を理解するには、支持する立場の人々の主張や物語を知ることが大切で、それを理解しなければ対抗もできない」
司書のバネッサ・ジェムさんは、「この委員会の役割は利用者が自分自身で評価できる史料を提供することだと考えている。行政に対して非常に否定的なものも肯定的なものも、制限や検閲、干渉を一切せずに、両方の視点を提供して、見る人に判断してほしい」と話す。
学問の府でも歴史に向き合う図書館活動が始まっている。マニラにあるアテネオ・デ・マニラ大学政治学部の助教、オリバー・キンタナさん(39)は、大学が設立したデジタル上の「アテネオ戒厳令博物館・図書館」のコーディネーターだ。
戒厳令下の記録や文学作品に、専門家らが注釈や解説をつけて収蔵し、利用可能にしている。教育用にダウンロードできる教材や授業プラン、ガイドも用意している。
このオンライン図書館が開設されたのは2022年だが、構想は2016年に始まった。元大統領のマルコスが国立の英雄墓地に埋葬されることが決まったことが契機だったという。
キンタナさんは「当時のドゥテルテ政権がこの方針を決めたとき、私たちは学術機関として対応する必要があると考えた。当時そして今もそうだが、ネット上には多くのフェイクニュースが流れている。民主主義のため、デジタル空間で起きている歴史の歪曲(わいきょく)に対処しなければならないと考えた」という。
キンタナさんは次世代への継承も重要だと強調する。「私自身、1986年のピープルパワー革命後に生まれ、戒厳令を経験していないが、そうした世代が歴史を記録することに関わることが大切だ。歴史から教訓を学び、現在に生かすことが大切だから」