1923年9月1日の関東大震災。地震の直後に火が噴いた。写真は日本橋周辺。後ろに焼け残った日本銀行、三越が見える。
焼失した国鉄中央線万世橋駅。周囲にはがれきが散乱し、余燼がくすぶる中を被災者が歩く。奥は日露戦争時の旅順港閉塞で戦死した軍神広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像。辰野金吾設計で1912年に開業した赤レンガの駅舎。駅前には東京市電のターミナルが設けられ、大正時代はにぎわった。震災後はかつてのにぎわいを取り戻せず、駅は1943年に休止された。駅構内には鉄道博物館(後の交通博物館)が移転した。
関東大震災で崩壊した東京・浅草の凌雲閣、通称「十二階」周辺。浅草公園に建てられた12階建ての展望塔だ。 1890年(明治23年)竣工。当時の日本で最も高い建築物で、日本初の電動式エレベーターを備え名所になっていた。
1923年9月1日の関東大震災で全焼、両わきの店が崩壊した、がれきの浅草仲見世の様子。
原型をとどめないほど壊れた丸善書店の本社屋。同社によると、地震では被害はなかったものの、地震後の火災で全焼。赤煉瓦鉄骨造りの建物が崩れ落ちた。
1923年9月1日の関東大震災で大都市東京は全市の85パーセントを消失し廃虚と化し9万9千人が死んだ。焼け野原にはのぼりを立てたハッピ姿の人探しの捜索隊が続いた。
関東大震災後、首相官邸の芝生で行われた閣議。手前左が山本権兵衛首相。
報道統制が解禁された日に発行された新聞の号外。「虐殺」の見出しの記事は「横浜における土木労働者多数の虐殺」と報じている。政府の中央防災会議が2008年にまとめた報告書は「虐殺という表現が妥当する例が多かった」と述べている。冒頭の記事は「流言」がどのようなものだったかを伝えている。
陸軍の騎兵に護送され、焼け野原となった東京市内を集団で歩く朝鮮人ら。ほとんどがはだしで着の身着のまま。反対側を騎兵の列が市内中心部へ向かう。
震災後、朝鮮人が暴動を起こすなどの流言、デマが広がり自警団に暴行される事件が続発したため、軍や警察が危害防止のためとして朝鮮人、中国人を保護、検束して強制収容した。
9月2日、緊急勅令によって、臨戦地、内乱時に適用される戒厳令の一部を東京府周辺に準用して戒厳区域とすることが決定され、軍が治安維持に当たった。戒厳状態は11月16日まで続いた。写真後方は両国橋。地震の損傷は軽微で習志野方面へ向かう国道7号(千葉街道、現・国道14号)が通行可能だった。
震災後、千葉県の習志野廠舎(高津廠舎)に収容された朝鮮人らを視察、訓辞をする山梨半造・関東戒厳司令官(左)。当時は朝鮮人が暴動を起こすなどの流言、デマが広がり自警団に暴行される事件が続発したため、軍や警察が危害防止のためとして朝鮮人、中国人を保護、検束して強制収容した。習志野廠舎には約4500人が収容されたほか、警視庁は東京府下目黒町の目黒競馬場に642人を収容するなど、各地に収容施設が作られた。習志野廠舎には日本人も約600人が避難していた。
習志野廠舎(高津廠舎)は陸軍習志野演習場に付属した兵舎で、演習時に兵士が宿泊するための施設。戦時には捕虜収容所としても使われる。9月2日、緊急勅令によって、臨戦地、内乱時に適用される戒厳令の一部を東京府周辺に準用して戒厳区域とすることが決定された。戒厳状態は11月16日まで続いた。山梨半造は元陸相で陸軍大将。福田雅太郎の後を襲って9月20日に軍事参議官から戒厳司令官に就任した。
「虐殺ノ跡ヲ視察」と記された「神奈川方面警備部隊法務部日誌」。「朝鮮人ニ対スル迫害」に関する報告を陸軍省に提出したなどの記述もある。横浜市中央図書館蔵。
6年生の児童の作文。「とうとう1人の朝鮮人はつかまって殺されてしまった」と記している。2004年に横浜市西区の南吉田小学校で見つかった559作の中の1点。市の施設に寄託される前に撮影された。後藤周さん提供。