「ウルトラマン」のテレビ放映が始まってから半世紀近く、特撮ヒーローはしぶとく生き続けてきた。
いまも毎週、仮面ライダーやスーパー戦隊がテレビ放映されている。テレビシリーズの新作がないウルトラマンも映画は健在で、CMではコミカルな役を演じた。
特撮ヒーローが長く親しまれている理由の一つは、いつの時代も変わらない作品の基本的なつくりにある。
正義の味方が悪者をやっつける構図。ふだんは人間の姿をしている主人公が、敵とたたかう時にヒーローに変身する展開。敵にやられそうになりながら、最後に繰り出す必殺技……。こうしたわかりやすさが、細かいストーリーを理解できない小さな子どもを引きつける。
日本の世相や文化を映した特撮が海を越えられるのも、どの作品にも通底する単純明快な「基本」のおかげだろう。「まるで様式化された古典芸能のようだ」と評論家の氷川竜介(53)は言う。「勇気を出す、正しいことを信じる、仲間を大事にする、困っている人を助ける。社会で生きていく基本を教えてくれる」
もちろん、何も変わらないままでは飽きられてしまう。特撮ヒーローには、時代に合わせて変わってきた面もある。
たとえば、1971年に始まった仮面ライダーの場合、初期の作品では、主人公が悪の組織に手術された「改造人間」だと説明するシーンがあった。だが、長い低迷の時代をへて2000年に「クウガ」で本格的に復活する際、このシーンは「暗く残酷で時代に合わない」として廃止。平成ライダーと呼ばれる一連のシリーズでは、13人のライダーをたたかわせたり、学園ドラマ風に仕立てたり、新しいヒーロー像を描いている。かつては男くさかった主人公も、草食系男子やイケメンが珍しくない。
戦士5人のスーパー戦隊では女性はずっと1人だったが、女性の社会進出に合わせ、「超電子バイオマン」(1984年)で2人に。衣装もかわいらしいピンクが定番だったが、その後はイエローやホワイト、ブルーを女性が着ることもある。
また、大きな時代性だけでなく、宇宙開発やバイオサイエンス、ディスコ、携帯電話など、その時々のブームにも目配りしてキャラクターや物語が練られてきた。
変えない「基本」と、変えていく「時代性」。両者の絶妙なバランスが、特撮ヒーローを支えている。
ヒーローといえども悩みや弱みをかかえ、悪者にも悲哀や情けがある。そんな複雑さが物語に深みをもたらす。
特に、ウルトラマンシリーズの敵役には味わい深いキャラクターが多い。
名作「故郷は地球」の怪獣ジャミラは、人間の宇宙飛行士の変わりはてた姿だ。ある星に不時着したが、ロケット事故を隠すために見捨てられ、怪獣になってしまった。人間への恨みを晴らしに地球に戻ってくるが、最後は倒されてしまう。
ウルトラマンの物語づくりの中心にいた脚本家、金城哲夫(1976年没)は沖縄生まれ。娯楽性を押さえつつ、マイノリティーの視点も忘れなかった。同郷の脚本家、上原正三(74)は「正義の味方に倒される側にも存在意義がある。それをまったく無視していいのか、という思いがあったのだろう」。
たとえば、人類によって海に追われた海底人ノンマルトは、海底開発をもくろむ人類に抵抗するも、ウルトラ警備隊の攻撃で海底都市もろとも壊滅してしまう。また、雪男のような怪獣ウーは、「雪女の娘だ」と村人に迫害される孤児の少女を助けようと現れ、少女が死ぬと消えていった。
上原もまた、「帰ってきたウルトラマン」のメーンライターとしてシリーズ最大級の問題作をつくった。関東大震災の際の朝鮮人虐殺を下敷きにした「怪獣使いと少年」だ。
宇宙人と交流した少年が「あいつは宇宙人だ」と、暴徒化した群衆に襲われる。止めに入った宇宙人が殺されると、封じ込められていた怪獣ムルチが出現して街を破壊し始める。主人公の郷秀樹は人類のために戦うことに疑問を覚え、ウルトラマンに変身するのをためらう――。
正義と悪が対決しつつも、「善悪二元論」や「勧善懲悪」といった単純な構図だけでは割り切れない。派手な立ち回りの背後に時代や世相をうまく映し出し、大人も子どもといっしょに楽しむことができる。幅広い世代に親しまれるところが特撮ヒーローの強みといえる。