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あの朗読会から105年 洪水後の世界で漂う記憶 英国文学界の大御所の新作 

Bestsellers 世界の書店から 更新日: 公開日:
『What We Can Know』
『What We Can Know』=関口聡撮影

『What We Can Know』の著者イアン・マキューアンは英国文学の大御所で、書けば世界中のファンが飛びつくという、村上春樹的存在。もう77歳だが、およそ50年前からクオリティーを落とすことなく書き続けている。題材・テーマの幅は広く、新作が出るたびに我々ファンは驚かされる。

どちらかといえば純文学作家という位置づけの彼だが、時々SF的作品を書く。ただ、時空のかなたに飛んでいってしまう類いの作品ではない。本書も未来を描いたという意味ではSFっぽいが、実態はディストピア物、文学スリラー、哲学的認識論、不倫物語と形容できるだろう。

タイトルを訳せば『わたしたちが知りうること』という簡単なものだが、平易な包装紙につつんだお品は知的曲芸ともいうべき作品だ。

冒頭、英文学者トム・メトカーフがウェールズ北部のとある図書館へ行くためにフェリーに乗る。船内1泊という長い水上の旅である。ここで英国を知る者は首をかしげざるをえない。ウェールズ北部といえば英国の山岳地帯だ。そこへ行くためにフェリーなど使わない。それもそのはず、舞台は気候変動による洪水が地球を襲い、核戦争によって世界の大国がちぎれたあとの2119年、かつて「英国」と呼ばれた場所なのだ。

英文学者トムは全然SFの登場人物っぽくなく、図書館へ行くのも昔の詩人の作品調査という地味な仕事のため。詩人とは傑作『ヴィヴィアンへ捧げる冠』という詩を書いたフランシス・ブランディ。彼は20世紀末~21世紀初頭を生きた詩人、わたしたち読者の同世代人である。しかし当の傑作は、2014年10月、妻ヴィヴィアンの誕生日に朗読されたあと行方不明になってしまった。

本作品の構造と意図は明確だ。21世紀初頭のまぼろしの名作の存在と意義を、気候変動と核戦争によって破壊された世界に生きる学者が人生をかけて探求する、それが構造的大枠であり、失われた芸術が評価されていた世界に生きていた人々を知りたがる憧憬(しょうけい)がそこにこめられる。

100年後の人が史実を探るのにインターネットは依然有効で、トムもインターネットを駆使する。アーカイブに残された資料の検証は必須だが、21世紀初頭は(われわれにおなじみの)フェイクニュースだらけだったり、貴重な情報はデジタル・タトゥー頼りだったりする。

マキューアンの作品に共通した美点は、知性・詩情・ユーモアの3点セットにエロチシズムのデザートと皮肉のエスプレッソがついてくるサービス精神だ。今回だと、トムが調査・探索に使うインターネットのプロバイダーがナイジェリア企業(米英などの先進国は水没してしまった)だという設定などがあげられる。また、トムの教え子たちには文章読解能力が備わっておらず、過去を学ぶ態度など皆無だという皮肉なども。

本書は大きく2部に分かれる。ここまでの解説は22世紀初頭に文学者トムが主人公として活躍する第1部にかんするものだが、第2部は一転して21世紀初頭、詩人フランシスの妻ヴィヴィアンが主人公。例の詩を捧げられた本人である。行方不明の詩は、実は彼女が保持していたことがわかる。彼女がなぜそれを秘密にしていたのかも。

平易なタイトル『わたしたちが知りうること』が結局は本作品の簡潔な要旨だったと気づく。「知りうること」と「知らなければならないこと」の間に横たわる苦い溝。記憶が築く「伝説」と記憶が積み重ねる「虚偽」の間に横たわる緊張。人生や歴史のどこかに必ずひそむ認知の段差である。

著者の同世代作家であるジュリアン・バーンズも、このところ加齢にともなう記憶の不確かさにかんする作品を書いている。80代にさしかかる作家たちの、これは共通テーマにならざるをえないものなのか。誰かがどこかでこの種の小説を「認知症文学」と評していたような気がするが、思いだせない。

英国のベストセラー(ハードカバー、フィクション部門)

2026年1月10日付 The Times紙より

『 』内の書名は邦題(出版社)

  1. Flesh

    David Szalay デイビッド・サロイ

    ハンガリー出身の少年がロンドンで成り上がってゆく。

  2. Alchemised

    SenLinYu センリンユー

    米国人作家が描く錬金術師をめぐるダークファンタジー。

  3. The Impossible Fortune

    Richard Osman リチャード・オスマン

    木曜殺人クラブシリーズ新作。700億円分のビットコインをめぐる殺人。

  4. Katabasis

    R.F.Kuang R・F・クァン

    アリスは魔術の能力を磨くため地獄へ旅する。現代版『神曲』。

  5. Brimstone

    Callie Hart キャリー・ハート

    ロマンタジー『クイックシルバー』に続く錬金術師シリーズ第2作。

  6. The Rose Field

     Philip Pullman フィリップ・プルマン

    『ブック・オブ・ダスト』3部作最終巻。ライラの覚醒。

  7. The Artist

    Lucy Steeds ルーシー・スティーズ

    1920年の南仏を舞台にして謎に包まれた画家の秘密を探る。

  8. The Secret of Secrets『シークレット・オブ・シークレッツ』(KADOKAWA)

    Dan Brown ダン・ブラウン

    ラングドンがプラハのカレル橋で奇妙な服装の女性に出会う。

  9. Exit Strategy

    Lee Child & Andrew Child リー・チャイルド、アンドリュー・チャイルド

    「カフェにいる大男を捜せ」との伝言を受け取った主人公は。

  10. What We Can Know

    Ian McEwan イアン・マキューアン

    気候変動などで破壊された22世紀の世界で文学者が21世紀の詩を追う。