今年80歳になるポール・マッカートニー。自伝を書いてほしいという依頼は頻繁にあった。無理もない。歴史的バンドの中心人物であり最も筆が立つ生き残りなのだ。しかし彼は断り続けた。日記はつけていないし手控えもない。だが考え直す。ぼくの人生とは歌を書き続けた人生だ。その歌について語ることが生きた記録では――。こうしてポールは14歳から76歳までに書いた曲から154曲を選び、その成り立ち、隠れた意味などを語った。
最近ポールの談話には反復が目立ち、修辞やオチが先読みできてしまうことが多くなっていた。ところがどうだろう、この本の新鮮さは! 秘密は編集を引き受けたポール・マルドゥーンにある。ピュリツァー賞受賞者であるこのアイルランドの詩人は、毎回数時間の話し合いを5年にわたって続け、触媒となり黒衣となって、ポールの心から物語を導き出した。ここで2作品だけご試聴を。
名曲“Eleanor Rigby(エリナー・リグビー)”の中に“Wearing the face that she keeps in a jar by the door”というフレーズがある。孤独な女性エリナーが「戸口においた瓶のフェイスクリームをつけて」というところだ。それは〈ニベア〉のコールドクリームだとポールは種明かしをする。彼の母親メアリーが愛用していた化粧品。14歳の時に亡くした母の匂いを、彼はあの歌に重ねていた。
ジョン殺害の直後、彼に宛てた感動的なラブソング“Here Today(ヒア・トゥデイ)”の解説は何度も読み返してしまった。「今日君がここにいたら、何と答えてくれるだろう」と語りかけ、「いや今日君はここにいる。ぼくの歌の中に」とさびしいほほえみで終わる小曲。その中に「一緒に泣いたあの夜を覚えているか?」というフレーズがある。この意味は30年以上謎だったが、答えが本書の中にあった。
米国公演の際、嵐のせいでモーテルに閉じこめられた夜、酒に酔った勢いで彼とジョンはどんなに互いを愛しているかを泣きながら言い合ったという。彼らが育った土地と時代、男の涙は禁物であり、ましてや男友だちに愛を告白するなどはありえなかった。ポールはこの歌でタブーを捨てた。未公開の写真も山ほどあって写真集としても楽しめる。しかし本書の真価は未公開だったポールの心である。
■オピオイドを売り続けた製薬会社
本書タイトル『Empire of Pain』を訳すならば『鎮痛帝国』となろうか。米国で猛威をふるうオピオイド系鎮痛剤中毒について、日本ではあまり伝えられていないようだ。オピオイドというのはアヘンの類縁物質で鎮痛効果がある。しかし麻薬性鎮痛薬と呼ばれるように使用方法によっては麻薬と同じく中毒、依存、過剰摂取は死に至る。実際毎日100人以上が過剰摂取で死んでおり、それは米国全体の交通事故死者数より多い。マイケル・ジャクソンやプリンスの死もこれが原因だった。
そうした危険を知りつつ1990年代以降この鎮痛剤を全米に拡販し続けてきたパーデューファーマなる製薬会社、ひいては同社を設立し経営し続けてきたサックラー一家の興隆と没落を描いたのが本書である。
サックラー家の始祖アイザックは20世紀初頭に東欧からブルックリンに移住してきた東欧系ユダヤ人だった。大恐慌で財産を失った家長は3人息子を医者にすることで一家を立て直そうとする。父親は、金銭的成功のみならず「サックラー」という家名を残すことにも固執した。
親の期待に応えて3人全員が医者の資格を得るが、長男は医薬品の宣伝の仕事を手始めに医薬品業界と広告業界両輪の活躍で富を築く。次男・三男も長兄に続く。権力(アメリカ食品医薬品局)に食い込んだ広告代理店による悪(麻薬類似商品)の散布と富の拡大というシステムが確立し、サックラー家=パーデュー社のマネーマシンがうなりをあげる。始祖の夢はかなった。金銭的成功は華々しく、それを基に全世界に展開した慈善事業による家名の刻印。だが、この慈善事業家サックラー家の麗しき名前は、パーデュー社が稼ぐ悪貨を洗浄する役目を果たすようになっていった。膨大な死者を出して膨大な富を稼ぎ出す一方で、世界の大学、美術館、文化施設に巨額の寄付を続けてきたのである。
昨年9月、サックラー家は45億ドルの支払命令を受け、パーデュー社は破産法の適用を受けた。始祖アイザックは100年前、子どもたちにこう警告していた。「富を失ったらまた稼げばいい。だが名前を失ったら手遅れだ」。予言は成就したようだ。
昨年、このストーリーをドラマ化したシリーズが日本でも公開された。「DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機」全8話(Disney+)である。本書を読む時間のない方にお薦めします。
■カズオ・イシグロが描く「AF=人工の友達」
クララは女性のロボットである。本作『Klara and the Sun』中ではロボットという言葉は使われず、AF(Artificial Friend)、すなわち人工友人という呼称が使われる。というのは、国不明・時代不明(ディストピア的未来)の本作の舞台にあって、クララたちロボットはもっぱら人間の子どもたちの友人として販売されているからだ。そして彼女たちは専門店のショーウィンドーで、日々買い手を待っている。
ある日、クララはジョジーという14歳の娘の友人となるべく買われてゆく。ジョジーは母親クリシーと2人暮らしの聡明な娘だが病弱だ。彼女には姉がいたが早逝したらしい。だが、ジョジーには親友のリックがいる。いずれ結婚しても良さそうな親密ぶりだが、リックの出自がそれを妨げているらしい。この狭い家族・友人関係の中に放り込まれたクララは日々人間関係の情報分析に努める。
クララは、母親クリシーが死んでしまった長女サリーを忘れられずにいることに気づく。その悲しみは恐怖に近い。次女のジョジーをも失ってしまうのではないか、という恐怖である。その悲しみ=恐怖を誰にも告げることのできないクリシーは、クララに語って聴かせる。ジョジーの友人としてあがなわれたクララだったが、母親クリシーの方がクララに依存し始めたような気配を感じる。
クララは人工知性の固まりだから聡明であり、ものごとの分析・判断も早い。ただし「人間愛」については学習過程にある。それは生身の人と人の世界に生きてこそ身につくものだから。読者は、買われてきたクララの愛についての学習曲線を見守る。そしてその急激に上昇する曲線のゆくえには、ある種の悲劇が待っていることを知る。
イシグロ特有の精緻(せいち)で抑制された筆致が、純真でひたむきなAFクララのけなげさと、薄暗い悲しみの漂う人間世界の対比を際立たせる。同種の作品は繰り返さないことをモットーにするイシグロが、再び意表をつく作品を書いてくれた。だが、穏やかな湖水の表面を思わせる独特の静謐さは、前作、前々作、そして出世作『日の名残り』に共通するものがある。
英国のベストセラー
The Sunday Times紙(2021年11月28日~12月5日付)が選んだ年間最優秀本
『』内の書名は邦題(出版社)
<音楽> The Lyrics: 1956 to the Present
Paul McCartney, Paul Muldoon ポール・マッカートニー、編集ポール・マルドゥーン
ビートルズ時代からソロに至る自作曲154曲について解説する形を取った自伝。
<ビジネス> Empire of Pain: The Secret History of the Sackler Dynasty
Patrick Radden Keefe パトリック・ラーデン・キーフ
米国でオピオイド中毒問題を引き起こしたサックラー一族の興隆と没落。
<文芸小説> Klara and the Sun
『クララとお日さま』(早川書房)
Kazuo Ishiguro カズオ・イシグロ
AIロボットのクララと病弱な少女ジョジーの交流を描く。
<歴史> The Ruin of All Witches: Life and Death in the New World
Malcolm Gaskill マルコム・ガスキル
17世紀の米国で起きた魔女狩りの実話。英国からの移民社会が破壊されてゆく。
<ユーモア> And Away...
Bob Mortimer ボブ・モーティマー
目下絶好調の62歳コメディアン、モーティマーの自伝。
<犯罪小説> The Appeal
Janice Hallett ジャニス・ハレット
1件の殺人事件に被疑者が15人。全体がメッセージとEメールで構成される。
<政治> Jews Don't Count
David Baddiel デイビッド・バディール
ユダヤ人、同性愛などの問題でリベラルであると自認するあなたへの警告。
<芸術> Hogarth: Life in Progress
Jacqueline Riding ジャクリーヌ・ライディング
18世紀ロンドンの風俗を銅版画に写し取ったホガースの20年ぶりの伝記。
<文学> Her Diaries and Notebooks
Patricia Highsmith パトリシア・ハイスミス
伝記を書かれることを拒否してきたパトリシア・ハイスミスの日記とノート。
<料理> Med: A Cookbook
Claudia Roden クローディア・ローデン
エジプト生まれの中近東料理の専門家による、簡単な地中海料理の紹介。