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黒人の詩人ヒューズが詠んだ「愛国」 寺山修司が交流した劇場の街

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ラ・ママ実験劇場。寺山修司は1970年、前身のカフェ・ラ・ママで「毛皮のマリー」を演出して好評を得た=2025年10月、ニューヨーク、福田宏樹撮影
ラ・ママ実験劇場。寺山修司は1970年、前身のカフェ・ラ・ママで「毛皮のマリー」を演出して好評を得た=2025年10月、ニューヨーク、福田宏樹撮影

ニューヨーク近代美術館(MoMA)には多くの名画が展示されています。絵もさることながら、筆者は館内で詩人ラングストン・ヒューズを描いた映画上映に出くわし、すっかり引き込まれてしまいました。

芸術の街ニューヨークには、劇場もたくさんあります。かつて寺山修司が芝居を演出したラ・ママ実験劇場を訪ね、往時の日米演劇交流について話を聞きました。

地図は旅に必携だった。今もそうではあるが、街角で紙の地図を広げる姿は消え、皆が手元のスマートフォンを触って自分の位置や目的地を確かめている。

ニューヨーク近代美術館で驚いたのは、絵の前で立ち止まって見つめている人の少なさだった。大方はスマートフォン片手で、パシャッと撮っては流れ作業のように移動していく。ゴッホの「星月夜」の前では、くるりと背を向けて絵を背景に自撮りする人が珍しくなかった。

これではモネもウォーホルも立つ瀬があるまいと思いながら、あちこちで窓から外の風景が見える館内を回った。

この歴史ある美術館の現在のたたずまいには日本人が関わっている。2004年に増改築した際、設計したのは日本の建築家谷口吉生(1937~2024)で、コンペで選ばれた。ニューヨークで会ったアメリカ人の夫妻がタニグチを絶賛していたが、古い建築を生かしつつ、明るく開放的な空間を生んで好評を博した。

日本の建築家谷口吉生氏が増改築を手がけたニューヨーク近代美術館(MoMA)=2025年10月、ニューヨーク、福田宏樹撮影
日本の建築家谷口吉生氏が増改築を手がけたニューヨーク近代美術館(MoMA)=2025年10月、ニューヨーク、福田宏樹撮影

絵を見て歩くうち、フィルムを上映している一角に行き当たった。暗がりに突っ立って見始めたら、モノクロの耽美的(たんびてき)な映像と全編に流れるブルースにすっかり引き込まれて動けなくなった。「Looking for Langston(ラングストンを探して)」という1989年の映画で、詩人ラングストン・ヒューズ(1901~67)の話である。ただし通常の伝記映画ではなく、資料映像と創作を織り交ぜて黒人同性愛者の世界と苦難を描く。

ヒューズは、1920年代にマンハッタンで始まったハーレム・ルネサンス(黒人による芸術復興運動とその隆盛)を主導してハーレムの桂冠(けいかん)詩人と称され、戦後も詩や小説、戯曲、ジャズ演奏に乗せた詩の朗読と多方面に才能を発揮した。

 

みんな、云っとくがな、
生れるってな、つらいし
死ぬってな、みすぼらしいよ━━
んだから、摑(つか)まえろよ
ちっとばかし 愛するってのを
その間にな。       (「助言」、木島始訳)

         

ヒューズは戦前の日本に来てひどい目に遭っている。自伝にこう書いた。

「一黒人としてわたしはそのころ世界をへめぐってきたのだが、ただ有色人の国である日本でだけ、わたしは警察の訊問に従えさせられ、故国へかえって、二度ともどってくるな、といわれた」

米国にせよ日本にせよ、果たして戦後どこまで変わったか。

「アメリカを再びアメリカにしよう」という詩も残した。

その一節━━。

         

おお、僕の祖国を、愛国といういつわりの花環で
「真の自由」が冠飾されることなく、
機会が真正のものであり、生活が自由であり、
平等が僕らの呼吸する大気のなかにあるような国にしよう。

     

ニューヨークのタイムズスクエア周辺には数多くの劇場がある=2025年10月、福田宏樹撮影
ニューヨークのタイムズスクエア周辺には数多くの劇場がある=2025年10月、福田宏樹撮影

    

「ニューヨークでは、いたるところが『劇場』である」。そう書いたのは寺山修司だった。1960年代末に渡米した寺山は、ニューヨークの劇作家に聞いたという。

「われわれの周囲に、これほど劇的な事件が相次いで起っているのに、この上まだ〝劇場〟を必要とするのはなぜなんだろうか?」

寺山は1970年に初めて米国で自作劇を演出、好評を得た。舞台はマンハッタンのカフェ・ラ・ママで、ラ・ママ実験劇場として今に続く。寺山の「毛皮のマリー」は、主役マリーに黒人の男性を起用したほか全役者をニューヨークで選んだ。当時の記事によれば「裸の女が壁に向って体操しているかと思えば筋骨たくましい黒人の男が顔におしろいを塗りたくっている」いかにも寺山仕込みの芝居だったらしい。

寺山に上演を促したのは劇場創設者の故エレン・スチュワート、世界の前衛演劇界のまさに「ママ」だった。寺山や「東京キッドブラザース」の東由多加らを可愛がり、日本の演劇界と深く関わった人である。

ラ・ママ実験劇場のアーカイブ担当カイリー・ゲッツさん=2025年10月、ニューヨーク、福田宏樹撮影
ラ・ママ実験劇場のアーカイブ担当カイリー・ゲッツさん=2025年10月、ニューヨーク、福田宏樹撮影

劇場のアーカイブ担当カイリー・ゲッツさんが、保存されている寺山の資料を見せてくれた。いわく「より現代的でシュルレアリスム的な日本の手法が、ここで行われていた新興の実験演劇に大きな影響を与え、真の文化交流がありました」。

1983年の寺山の死去に際し、ラ・ママ実験劇場ではスチュアートをはじめ米国の演劇関係者が追悼の会を開いた。振り返れば、日本では寺山が亡くなる前月に東京ディズニーランドが誕生している。戦後80年の中ほどで、身体から仮想現実へと社会が位相を変える象徴的な「交代」だったように思えてくるが、AI時代の変化のスピードは当時の比ではない。

「かつてビデオ・プロジェクションがそうであったように、AIが劇場に何らかの影響を与えていくことは間違いない。それがどのように新しくエキサイティングな形であり得るのかはまだわからないけれど、演劇が人間の物語であり、人間が中心となる点で変わることはありません」。ゲッツさんはそう語るのだった。

        

寺山はヒューズの詩が好きだったようで、著書で言及している。多才なところは似ていて、寺山が『戦後詩』で引いたヒューズの「七十五セントのブルース」にはとりわけ相通じるものを感じる。

         

どっかへ 走っていく 汽車の
七十五セントぶんの 切符を くだせい
ね どっかへ 走っていく 汽車の
七十五セント ぶんの 切符を くだせい ってんだ 
         
どこへいくか なんて 知っちゃあ いねえ
ただもう こっから はなれてくんだ。

 

汽車も切符も、いずれは死語と化してしまうかもしれない。そしてこの木島訳の妙、平仮名や空白の使い方が醸し出す「肉声のひびき」(寺山)が失われていくことを私は惜しむ。いやそれもAIがきちんと……ということになるのだろうか。