「民主主義」から読み解く 尾高朝雄が込めた思いは 石川健治・東大教授インタビュー
教科書『民主主義』が書かれたのは、日本国憲法施行後初の内閣だった片山哲内閣(1947~1948年)から芦田均内閣(1948年)にかけての時期で、社会党(の右派)と、芦田均氏の民主党、そして国民協同党との連立政権が、中道政治をめざしていました。憲法制定に関与したGHQ民政局が、この枠組みを全面的にバックアップしており、日本国憲法が想定していた政権のあり方といえます。その間の文部大臣は、元東大の経済学者で憲法25条(生存権の保障)の規定を作るのに貢献した、社会党右派の森戸辰男氏が一貫して務めました。
注目すべきは、民主党と社会党の接着剤だった国民協同党の存在です。後の首相、三木武夫氏が率いる同党は、資本主義でも社会主義でもない、第三の道としての「協同組合主義」を掲げていました。政務調査会長の船田享二氏(後に衆院議長を務めた船田中氏の弟)は、敗戦までソウルにあった京城帝国大学で教えたローマ法学者。かつて同大学で同僚だった尾高は、理論面から船田を支援しました。『民主主義』も、この協同(組合)主義を基調として書かれています。
右でも左でもない中道。本書はそれを「資本主義と社会主義との間のさまざまな中間形態を幅広く包容して、その中のどれを採るかを国民の多数の意志で決めて行こうとする民主主義」と論じています。日本国憲法の想定している民主主義を体現したものだといえるでしょう。尾高は独裁主義を厳しく批判し、共産主義も「プロレタリアの独裁」と結びつく時、民主主義ではなくなると指摘しました。民主主義の前提となるのはさまざまな意見の対立であり、政治的指導者に依存することなく、一人ひとりが自分の頭で考え、意見をたたかわせる必要性を強調しました。民主主義は数の政治ではなく理の政治でなくてはなりません。
宣伝やプロパガンダについては、京城大学時代の同僚・戸沢鉄彦氏による「宣伝戦」研究の成果を踏まえており、今でも刺さる記述が多いです。「真実とうそとをじょうずに織りまぜる方法」や「金をつかって世論を支配しよう」とする「宣伝戦」など、「宣伝によって国民をあざむく方法」の章は、ポピュリズムや偽情報が横行する現代に生きる叙述でしょう。「報道に対する科学的考察」の重要性を訴えています。
当時、参政権を得たばかりの女性についても、政治や教育、労働などさまざまな側面から、男女平等を説きました。尾高文庫にも、著名な運動家だった山川菊栄氏や神近市子氏などが著した「婦人問題」という蔵書があり、精読の跡が残されています。
国際的な視野もありました。民主主義的な教育や、科学が探究する真理や、文化による心の結びつきが国境を越えて広まるよう、ユネスコ(国連教育科学文化機関)に非常に期待をしており、実際に日本代表としても活躍しました。