1961年のオランダ ある家を舞台に2人の女性が向き合う 心理ミステリーとエロティカ
2024年のブッカー賞では受賞作と競い合い、25年の女性小説賞を受賞した『The Safekeep』。ここ数カ月タイムズ紙のベストセラー上位に貼りついたままで、ブッカー賞受賞作よりも売れている。
物語は1961年の夏、オランダの小都市で終始する。61年でなければいけないのだろうか?─10年早くても遅くてもつじつまを合わせにくくなるだろう。オランダでなければいけないのだろうか?─ベルギーかフランス北部でもいいけれど、イギリスやドイツだと成り立たない。
主人公のイザベルは、小都市ズヴォレでひとり暮らし。その家は父親亡きあと母親と兄と弟と越してきた古い家で、28歳の彼女はそれまでの人生の大半を過ごしてきた。数年前に母が死に、兄弟もそれぞれ独り立ちし、彼女がその家を管理していた。家事に専念していた母親の遺志を受け継ぐように、彼女は家の隅々の整理整頓を心がけ、資産管理人のような生き方をしている(ゆえにこの題名、The Safekeep=保管)。でも、その几帳面(きちょうめん)な住まい方には余裕なきイライラ感がつきまとい、読者にはいやな感じを与える。
ある日、兄がイザベルと同い年くらいのイーヴァという娘と一緒にやってきた。プレーボーイの兄は、そんなふうに新しいガールフレンドを連れてくることがよくあった。今回は、すみかに困っているイーヴァを短期間でいいから、空いている部屋に住まわせてやってくれ、と言い残して。法律的にはその家は兄が相続していたものなのだから、イザベルとしては拒否できない。しかし潔癖症な住み込み管理人イザベルにとって、この不意に現れた同居人の言動はいちいち気に障る。金髪のイーヴァは遠慮とか配慮に欠けた娘で、これまた読者にはいい感じを与えない。
イーヴァが移り住んできた頃から、その家では不思議なことが起きる。スプーンが1本、ナイフが1本と消えてゆく。ふつうなら気がつくまいが、几帳面なイザベルは全財産目録を作っていたから、ささいな喪失にも気がつくのだった。合理的疑惑はイーヴァに向かう。だがイーヴァは言下に否定する。
実はそれよりも妙なことが、イーヴァの登場以前に起きていた。そもそも本作品の1行目はこう始まっている。「イザベルは陶磁器の破片を、枯れた瓢簞(ひょうたん)の根元で見つけた」。それは母親が大事にしていた1セットのウサギの絵皿の一部であった。同じシリーズの絵皿は今でもガラス戸付きの食器棚に飾ってある。母が壊すわけがない。壊したとしても修理しようと努めたろう。そんなふうに庭の片隅に捨て置くわけがない。
ただこの破片、本作品の謎解きのあとで振り返ってみると、膨大なジグソーパズルの最初の一片であったということがわかる。そして本作の主人公がイザベルであることは言を俟(ま)たないが、彼女の住む「家」が陰の主人公であるとも言えよう。ダフネ・デュ・モーリアの名作『レベッカ』で、ある邸宅が「主人公」であったように。
著者ヤエル・ファン・デア・ワウデンは本書を英語で書いておりオランダ語からの翻訳ではない。本書で使われる英単語は日本の高校3年レベルの語彙(ごい)に相当し、辞書は5、6回引けば足りるだろう。その風通しの良さが、全体にただよう詩情と静謐(せいひつ)の理由かもしれない。意外などんでん返しにも、雲母(うんも)を一枚一枚剝いでいくようなエレガンスがある。
著者は本作を「半分が心理ミステリーで半分がエロティカ」と紹介していた。エロティカは日本語でどう言えばいいのだろうと辞書を引いたら、「好色文学」と出た。それはないでしょうという気持ちは、その昔漱石の小説を読んでいたときに「四つ葉のうまごやし」という芬々(ふんぷん)たる言葉に遭遇して戸惑ったときのものに似ている。四つ葉のクローバーのことだったのだが。
秋の夜長、辞書なしの英文小説講読に、本書はあらゆる意味でお薦めです。
2025年8月2日付 The Times紙より
『 』内の書名は邦題(出版社)
The Safekeep
Yael van der Wouden ヤエル・ファン・デア・ワウデン
1961年夏、オランダの同じ家にいる2人の女性の間で繰り広げられる欲望と疑念、執着の物語。
The Sleepwalkers
Scarlett Thomas スカーレット・トマス
新婚旅行で出かけたギリシャの島、暴かれる秘密の関係。
You Are Here
David Nicholls デイヴィッド・ニコルズ
離婚したばかりの友人同士、マイケルとマーニーが徒歩旅行に出る。
The Wedding People
Alison Espach アリソン・エスパック
フィービーが休暇に出かけたホテルで、彼女は結婚式の客と間違えられ……。
There Are Rivers in the Sky
Elif Shafak エリフ・シャファク
紀元前にアッシリア王の頭に降った雨が循環して19世紀のロンドンに住むアーサーの唇を濡らす。
Strange Houses『変な家』(飛鳥新社)
Uketsu 雨穴
購入を考えていた中古の一軒家の間取りにひそむ謎とそこに漂う違和感とは。
Rewitched
Lucy Jane Wood ルーシー・ジェイン・ウッド
ロンドンの書店に勤める過労気味の魔女。魔女会に招かれて試験を受ける。
Intermezzo 『インテルメッツォ』(早川書房)
Sally Rooney サリー・ルーニー
2人の兄弟、それぞれの女性関係と女性に求めるものは違う。そして彼らの父親との関係も違っていた。
The Hotel Avocado
Bob Mortimer ボブ・モーティマー
ロンドンでの安定した仕事を続けるか、ガールフレンドが経営する海辺のホテルを手伝いに行くべきか。
The Life Impossible
Matt Haig マット・ヘイグ
72歳の引退数学教師、突然かつての同僚からスペイン・イビサ島の家を相続する。イビサを訪れた彼女の体験とは。