スザンナ・クラークの長編2作目『Piranesi』は、なかなかその小説世界に入りにくい。荒唐無稽なSFであったとしても、空と海は建物の外にあるだろう。ところがピラネージという名前の35歳の主人公が住む巨大な家は地階では海がうねっており、最上階を鳥が飛んでいる。そして彼が住む家の東西南北にはそれぞれ700から900、あるいはそれ以上の広間が延々と続いている。
また、物語が展開する年代がわからない。というのはピラネージの日記という形で展開される本書の、その肝心の日付が「南西ホールに初めてアホウドリがやってきた年の5番目の月」というように和暦以上にあいまいで絶対的参照点を持たないからだ。
そしてその巨大な家を含む広大な大地に住むのはピラネージと「他人」と呼ばれる高齢の人物だけである。
ピラネージという名前が気になる読者もいるだろう。これは主人公の本名ではなく「他人」から名づけられた仮称らしい。とはいえ上述の不思議な建築物のたたずまいは、18世紀イタリアで画家・建築家のピラネージが描いた銅版画、特に彼の「牢獄」シリーズに似ている。
「他人」はピラネージの指導者のような立場にあるが、ピラネージは自分の記憶がある時期以前消えていることを意識している。この世界に住むのはピラネージと「他人」だけだと言った。だが死者ならいる。13人分の遺骨があるのだ。彼らの名前も死因もわからぬが、ピラネージはそれを丁寧に扱っている。なぜなら彼にとって世界の人類とは自分たち2人と死者13人の合計15人だけだからだ。
ところが「他人」がピラネージに、16人目が現れるかもしれないから注意せよ、と告げる。ある日彼は誰かが床に書いたメッセージを見つける。自分が持っている白・青・ピンクとは違う黄色のチョークで書かれた文字だ。これが16人目の筆跡なのか?
この辺りから画家ピラネージ的世界に版画家エッシャー的な不思議絵のようなひねりが加わり、読者は大きな認知転換を2度迫られることになる。そこを経由して終盤にはしみじみとした感動がある。
入り口が難しげでも報われるタイプの小説です。
■秘密の二重生活が奏でる三重奏
William Boyd『Trio』の主たる舞台は1968年夏のブライトン。英国の鎌倉みたいな海浜タウン、そこで映画のロケが進行中という設定。登場人物は多いが、題名のトリオを意味する小説家のエルフリーダ、映画プロデューサーのタルボット、そしてアメリカ人の映画女優アニー、この3人が本書の中心人物になる。
それぞれに個性豊かで問題含みの人々だ。ヴァージニア・ウルフの再来かともてはやされた小説家だったけれど10年近くスランプに陥ったままのエルフリーダは登場1ページ目で高らかに放屁しつつ朝からウォッカをきこしめし、既婚者で子どももいながら同性愛者である第2次大戦の英雄タルボットはロンドンに愛人を隠し自分とは何者かを絶えず問い、セックスに耽(ふけ)り薬に溺れる美女アニーの夫はFBIの追跡を逃れて英国のどこかにいるらしく彼女の心は穏やかではない。
トリオとして名指しされた3人ではあるが、そこに三重奏のような相互作用があるわけではなく、同じ映画の製作に関わっていることと悩み多き秘密の二重生活を送っているという共通の前提を有するに過ぎない。それぞれに幸福を追求する3人ではあるが不安と疑念と過ちの中でもがく、その様は展開過程での共通点と言えるだろう。
1968年という設定も意義深い。パリの五月革命やドイツの68年世代闘争などの学生運動、ロバート・ケネディとキング牧師の暗殺、ベトナム戦争でのテト攻勢と反戦デモの盛り上がりなど、世界的に文化・政治の分水嶺となった年である。登場人物の一人がこんなことを言う。「見回してごらん、ドイツ、フランス、アメリカ、ベトナム、世界は火の海だ、大変化の最中なんだ。後戻りなんかするんじゃない」
キャラクター、プロット、しゃれた文章、と三拍子揃った本作品は最後まで読者を飽きさせず、ボイド的仕掛けに絡め取ったまま最終ページへ至る。
■ポンペイの悲劇5年前、そこに娼婦たちがいた
Elodie Harper『The Wolf Den』は西暦74年のポンペイが舞台。つまり同市がベスビオ火山の大爆発で埋もれてしまう79年の5年前ということになる。主人公はポンペイの売春宿で働く娼婦奴隷のアマラ。彼女はギリシャで医者の娘だったが父親の死後、生活に困った母親によって奴隷として売られて来た。彼女が属する売春宿<狼穴>での彼女は、売春宿の残忍でずるがしこい主人フェリックスに憎悪を燃やす。医者の娘として育てられたアマラには教養と矜恃(きょうじ)がある。どんなことをしても娼婦の身分から抜け出して、母国ギリシャにいた頃の自由を取り戻そうとする。
過酷な仕事と境遇にあえぎながらも互いに支え合うアマラたち5人の娼婦奴隷の友情が本書の重要な柱であるが、とりわけアマラが彼女たちに捧げる思いやりと励ましが本書の中の美点である。物語の本筋を離れては、当時の慣習や奴隷制度の詳細が描かれ、「ポンペイ通」の多い英国読書界ではその臨場感に魅せられた人々も多い。
当時人口1万人のポンペイ市には35軒の買春宿があったと考えられるが、その遺跡が現代の観光客にも人気のある娼婦館<ルパナーレ>を著者は本書のモデルにし、周囲で展開する物語には遺跡として現実に残っている町並みや通りを使っているという。どうやら本書は3部作の1冊目らしく、ポンペイの悲劇、火山の爆発までのあと5年を、著者は順々に新作で埋めてゆく計画のようだ。
英国のベストセラー(ペーパーバック、フィクション部門)
10月2日付The Times紙より
『 』内の書名は邦題(出版社)
1 The Wolf Den
Elodie Harper エロディ・ハーパー
ポンペイで売春婦として売られた娘アマラが自由を求めて戦う。
2 The Thursday Murder Club
『木曜殺人クラブ』(早川書房)
Richard Osman リチャード・オスマン
引退村に住む後期高齢者4人組が殺人事件を解決する。
3 Piranesi
Susanna Clarke スザンナ・クラーク
この世ならぬ迷宮に住むピラネージがアイデンティティーを模索する。
4 It Ends With Us
Colleen Hoover コリーン・フーヴァー
小さな田舎町からボストンに出てきたリリーのキャリアと恋愛。
5 Slough House
Mick Herron ミック・ヘロン
英国の情報機関MI5を舞台にした「窓際のスパイシリーズ」10作目。
6 The Seven Husbands of Evelyn Hugo
Taylor Jenkins Reid テイラー・ジェンキンス・ライド
ハリウッドの大物女優エヴェリンがスキャンダラスな過去を告白する。
7 The Song of Achilles
Madeline Miller マデリン・ミラー
古代ギリシャ。アキレスとパトロクロスの友情を描く現代版イーリアス。
8 The Midnight Library
Matt Haig マット・ヘイグ
自殺を試みたノラは魔法の図書館で人生の可能性に救われる。
9 Trio
William Boyd ウィリアム・ボイド
1968年のブライトンで映画の撮影が進行中。そこへFBIが現れる。
10 Dune
『デューン 砂の惑星』(早川書房)
Frank Herbert フランク・ハーバート
1965年出版本のリバイバル。今年封切りの2度目の映画化で再度脚光を。