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徴兵制の歴史、きっかけはフランス革命 近代国家の成立とは切っても切れない関係

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埼玉大学教養学部の一ノ瀬俊也教授=2025年2月、さいたま市内の埼玉大学
埼玉大学教養学部の一ノ瀬俊也教授=2025年2月、さいたま市内の埼玉大学、丹内敦子撮影

世界的に徴兵制はいつから、なぜ始まったのか。この制度を国民が受け入れてきた理由はなにか。徴兵制の大きな歴史的流れについて、埼玉大学の一ノ瀬俊也教授に聞きました。(聞き手・丹内敦子)

近代の国民国家と徴兵制は切り離せない関係にある。国民国家ができたから徴兵制が生まれたとも言えるし、徴兵制があったから国民国家が成立したとも考えられる。なぜなら、国民国家とは国民一人ひとりが支える国家であり、その支えの一つに、兵士となって祖国を命がけで守り抜くことが含まれるからだ。

一般に、国民国家は18世紀のフランス革命によって誕生したとされ、近代の徴兵制もフランス革命以降にできた。為政者たちは愛国の熱情を鼓吹し、大勢の国民がこれに応えて戦場へ向かう。この図式が一般的になったのが近代である。

フランス革命以前のヨーロッパの戦争は傭兵(ようへい)制で戦っていた。傭兵は金銭で雇われて戦争に行くため、命の危険を感じたら逃げることが多かった。何より金がかかってしまう。そうしたなかで、安上がりに兵士を集められる徴兵制の発想が生まれてきた。

徴兵制の普及には小銃の発達も大きかった。馬を乗りまわし、重い武器を使う専門的な訓練は必要なくなり、集めた多くの歩兵に銃を持たせ、号令どおりに動くように訓練すれば戦争に勝てるようになった。日本でも、幕末に欧米から流入した大量の銃が、馬に乗り弓や刀で戦う武士たちの存在意義を否定し、身分制の時代を終わらせていった。

フランスはその後、ナポレオンが大軍を編成し、革命に干渉しようとする欧州諸国から自国を守るための戦争を繰り広げた。そのフランスをまねてプロイセンや日本も19世紀に近代的な徴兵制を採用した。ヨーロッパ大陸の国々は徴兵制で大量の陸軍兵力を調達した一方、島国の英国のような、海軍主体の国は志願制だった。日本は大陸進出のための陸軍と、南進のための海軍の両方の拡大をはかり、太平洋戦争の敗戦によって最終的に破綻した。

1914年に始まった第1次世界大戦はいわゆる総力戦となり、とにかく多くの兵士を集めて武器を持たせることが必要になった。海軍国イギリスも第1次大戦のときに徴兵制を敷いたが、戦争が終わると志願制に戻し、第2次大戦時に再び徴兵制にした。

1917年11月20日、カンブレー近郊のリベクール・ラ・トゥールで、兵士たちがイギリス製マークIV戦車を追う。第1次世界大戦は、技術的、科学的、社会的革新の多くの「初」を世に送り出した。戦車は、塹壕戦による膠着状態を打破する手段として発明された=Reuters
1917年11月20日、カンブレー近郊のリベクール・ラ・トゥールで、兵士たちがイギリス製マークIV戦車を追う。第1次世界大戦は、技術的、科学的、社会的革新の多くの「初」を世に送り出した。戦車は、塹壕戦による膠着状態を打破する手段として発明された=Reuters

第1次大戦の陸戦では機関銃や大砲が発達し、戦車や飛行機も登場したが、歩兵が要らなくなったわけではない。互いに撃ち合い、最終的に敵の陣地や都市を攻め落とすには大勢の歩兵が必要だからだ。

ウクライナ侵攻が始まるまでは、これからはハイテク兵器の時代だから徴兵制は不要だといわれていたが、現実のウクライナの戦場は、あたかも第1次大戦の再現のようになっている。兵士たちが敵の立てこもる塹壕(ざんごう)陣地に突撃し、あわせて頭上からは遠隔操作のドローンが爆弾をピンポイントで落とすという新旧混在の戦い方は、大量の歩兵を必要としている。

100年先は分からないが、しばらくは戦争に多くの人手が必要である状況は変わらず、世界のすべての国が徴兵制を廃止することはないだろう。ロシアの脅威に直面するヨーロッパでは、逆に徴兵制を復活させたり、規模を拡大したりしている国もある。

大阪府の壮丁予備検診を視察する当時の池田知事=1938年10月18日、大阪府の長瀬第一小学校、朝日新聞社撮影
大阪府の壮丁予備検診を視察する当時の池田知事=1938年10月18日、大阪府の長瀬第一小学校、朝日新聞社撮影

徴兵制軍隊にとって「公平性」と、何のために戦うのかという「大義名分」は非常に重要だ。徴兵制は人々の自由を厳しく制限するにもかかわらず、「あなたは軍隊に入るけれど、あの人は入らなくてもいい」となると、本人や家族の不公平感が募り、国が分裂してしまう。だから韓国は国民的アイドルグループのBTSにも等しく徴兵制を適用したのだ。

日本軍は明治初期から昭和20年の敗戦まで、徴兵制に固執した。明治維新の目的自体が強い軍隊を作って国力を高め、欧米列強に対抗できる国にすることだった。必要なときに必要な規模の軍隊を安上がりに作る仕組みとして、徴兵制を採用した。

太平洋戦争の最後の段階になると多くの男性が根こそぎ動員され、国民義勇戦闘隊という男女混合の民兵組織まで作られた。だがそれより前の平時は、軍隊の定員にあわせて徴兵検査を行い、体格順に3、4人に1人程度の割合で選抜していたにすぎなかった。兵士には2、3年もの服役のあいだまともな給料は支払われず、残された家族が生活に困るケースが多発した。不公平が過ぎるとの批判は絶えなかったが、軍は根本的な対策をとらず、兵役は国民の名誉であるから喜んで服役すべきという理屈を繰り返すばかりだった。

見送りの人たちから万歳で送られて出征する兵士=1932年2月、富山駅
見送りの人たちから万歳で送られて出征する兵士=1932年2月、富山駅、朝日新聞社撮影

戦争の目的、大義名分が明確でないまま国民の義務として嫌々軍隊に入れられても、兵士たちのモラルは低下し、罪を犯すこともある。日中戦争が泥沼化した日本軍では、上官への反抗や逃亡、各種の戦争犯罪が多数起こった。現在のウクライナ戦争でも大義名分のないロシア兵の士気は低く、ウクライナ兵にとっては祖国防衛で士気は高いと言われた。それでも戦争が3年続き、ウクライナでも兵士の疲労が募り「なぜ自分だけが」という不満の声が出ていると聞く。

軍隊には献身の対象という意味でのイデオロギーが必要だが、日本軍はそれをすべて「天皇陛下のため」で押し切ろうとした。しかし戦後、日本国憲法は軍隊の保持を認めず、かわりに必要最小限の自衛権行使を名目として自衛隊が設置された。徴兵制は「意に反する苦役」であるから違憲というのが政府解釈となった。自衛隊は戦前回帰との批判をおそれて明確なイデオロギーの保有をみずから禁じた結果、完全に職業のひとつとみなされ、高度成長下で民間企業などとの人員獲得競争をしいられた。今後少子化が進み、より待遇のよい職業があれば、多くの人はそちらを選ぶだろう。自衛隊の定員不足がひさしく問題となってきたが、日本人だけで現在の定員約25万人を維持するのはさらに厳しくなるだろう。