パナマ運河拡張で支払った代償 海水化進む湖、生態系や国民の半数の飲料水にも影響

日が暮れるころ、パナマのガトゥン湖(訳注=パナマ運河建設の際に造られた人工湖で、運河の一部をなす)で2人の科学者が作業に取りかかり、長い網をほどいてボートの船尾から湖上へ投げ入れた。
ジャングルでは夕べの交響曲の演奏が始まった。心地よい虫の音、遠くから聞こえるサルの鳴き声、時おり響くトビの甲高い声。浅瀬でワニがくつろぎ、ヘッドライトに照らされると目がキラキラ光った。
貨物船の黒い船影が水面に浮かび、二つの海をつなぐ水路を進んだ。
パナマ運河(訳注=1914年に開通、全長約81キロ)は1世紀以上にわたり、広大な範囲の諸国民と経済圏を結びつけて、地球貿易の死活を握る大動脈として機能してきた。そして最近数週間は、領土の拡張をもくろむトランプ米大統領の標的になっている。
ところで、運河は最近、別のものも結びつけている。大西洋と太平洋の巨大な生態系だ。
パナマ地峡が海中から隆起して海が分断されてから、約300万年間にわたって二つの海は隔てられてきた。大陸を貫いて運河が建設されたが、その後の数十年間は運河の閘門(こうもん、訳注=水位の異なる水面間で船を通航させる仕組み。プールのような施設に船を入れ、水を出し入れすることで船を上下させ、他方に航行させる)に水を供給する淡水のガトゥン湖や水路を通じ、少数の種類の海洋魚だけがかろうじて地峡の反対側の海へ移動することができた。
そして2016年、パナマが運河を拡張して超大型船の航行を可能にした(訳注=通行可能な船舶は全長約294メートル・船幅約32メートルから、それぞれ366メートル・49メートルになった)ことで、すべてが変わり始めた。
それからまだ10年経っていないが、パナマのスミソニアン熱帯研究所(訳注=米ワシントンのスミソニアン協会の研究機関の一つ。パナマ市内に本部がある)の科学者たちが調べたところ、スヌーク、アジ科の魚、フエダイなど両側の海から入ってきた魚が、運河の水域に生息してきた淡水魚の大部分に取って代わった。
主にピーコックバスやティラピアといった淡水魚を取るガトゥン湖周辺の漁師たちは、水揚げが乏しくなってきたと話している。
研究者たちは今、さらに多くの魚が一方の海から他方の海へと移動を始める可能性を心配している。とくに最も強く警戒している事態は、しま模様で有毒のミノカサゴが侵入してくることだ。
ミノカサゴはパナマのカリブ海沿岸に定着していることが知られているが、東太平洋側にはいない。もし運河経由で分布が広がると、メキシコ湾やカリブ海でやってきたように、東太平洋側で無防備な地元の魚介類の生態系を荒らす恐れがある。
スミソニアンの水産生態学者フィリップ・サンチェスによると、ガトゥン湖ですでに海洋生物は時々紛れこむ来訪者のような存在ではなく、「支配的な集団を形成し、他の魚を追いやっている」という。
最近のある夕方、スミソニアンの生物学者ビクトル・ブラーボとサンチェスはガトゥン湖に漁網7枚を持ち込んだ。いずれの網も長さ45メートル、幅3メートル以上の大きさで、多様なサイズの網目で魚のえらを引っかけることができる。
科学研究者たちは網を様々な場所に仕掛けた。捕獲した魚をワニに食べられることを警戒し、その夜はそのままボートの上で過ごした。後日、ほかの研究者たちとともに研究室で捕獲した魚の状態を分析し、どこから泳いできて、湖の食物連鎖にどうやって適合したのかを調べる予定だった。
ブラーボは網の一端を木の枝とつないで、「さあ、やろう!」と叫んだ。船長がボートをバックさせると、網がぴんと張った。彼らは待った。
パナマ運河では、航行する船舶の船体にくっついたりバラスト水に紛れ込んだりした海洋生物を旅させてきた長い歴史がある。たとえばインド太平洋のカキ、黒海のクラゲ、オランダの干潟にすむワームなどだ。しかし、科学研究者たちが知る限り、最近の水路への侵入者は船舶を利用していない。
パナマ運河では近年の拡張の際、最新の超大型貨物船を上げ下げできる新しい閘門を備えた水路を太平洋側とカリブ海側に新設した。当然のことながら、新閘門は従来の閘門よりも大きい。だから船が通るたびに、それまでより多くの量の淡水が海洋へ流れ出て、より多くの量の海水がじゃぶじゃぶと流入する。これに伴って、おそらく沿岸から入ってくる魚も増える。
運河に入る海水が増えたため、湖の広い水域で塩分濃度が上昇した。もっとも、ライプニッツ淡水生態学・内水面漁業研究所(ドイツ・ベルリン)の博士研究員で、運河の生態系を調査しているグスタボ・カステジャノス・ガリンドによると、これまでの塩分濃度の上昇レベルでは、これほど多くの海水魚が突然現れた理由を説明することはできない。
その代わり、大型化した閘門と船舶、及び使用する水の増大の組み合わせが原因となって、より多くの魚が泳ぐか流されるかして運河に入ってきたとカステジャノス・ガリンドら研究者たちは考えている。「魚が移動して入ってくる機会が増えただけです」とハーバード大の淡水生態系学者のダイアナ・シャープは明言した。
ガトゥン湖の漁師たちは他の誰よりも湖のことを知っており、海水魚の侵入の影響は広範囲に及んでいると語る。
湖の西岸、虹色に塗られた家が立ち並ぶクイポ村のフェリックス・マルティネス・ゴンサレスはここ数十年、自宅から淡青色のカヌーに乗って湖で漁を続けてきた。最近のある日は約6時間で16ポンド(約7.3キロ)の魚をモリで捕獲したが、運河が拡張される前にはその2倍の漁獲があったという。
パナマが運河拡張で抱え込んだ難問は、漁業問題にとどまるものではない。
海水の流入は、ガトゥン湖のほかの主要な機能も脅かしている。それは、国民の半数に飲料水を供給することだ。運河当局は湖の一部を脱塩し淡水化する方法を研究している。また、新たな淡水の貯水池をつくるため、別の川をせき止めることも計画しており、事業の過程では大部分が貧困層の約2千人を移住させる見通しだ。
批判的な立場から見ると、この状況はパナマ当局の見通しが甘かったことを示している。運河の拡張というコストが高く破壊的な事業は、別の高コストで破壊的な事業でしか解決できない問題を引き起こしたからだ。
「実際、運河の拡張の前に湖の塩分濃度の問題は議論されなかった」と、パナマ議会の議員で元運河担当職員のマヌエル・チェン・ペニャルバは指摘した。今やパナマ国民は、地球上で最も雨量が多い国の一つに住んでいるのに、飲料水のことを心配している、と彼は述べた。
まず新たな水源を確保しないままでも、運河は拡張されるべきだったのかという問いに対し、運河管理者のリカウルテ・バスケス・モラレスは、パナマにとって拡張がきわめて重要なことだったと強調した。運河を通る船舶数は従来の閘門の許容量を超えていた。パナマにとって、状況に合わせるか、「後れをとる」かの選択だったとバスケス・モラレスは語った。
環境相のフアン・カルロス・ナバロは政府が運河の環境問題を解決する方法について、スペイン語の言い回しでこう表現した。「私は急いでいるから、ゆっくり服を着る」。急がば回れ、だ。「私たちが運河をめぐる判断を間違えることはない。パナマは運河であり、運河がパナマだ」
しかし、魚の問題では、正しい判断が何を意味するのかが明確ではない。淡水の供給を増やしたとしても、魚が新しい閘門に泳いで侵入するのを防ぐことができるとは限らない。電気の障壁か気泡のカーテンを設置しても、排除できる魚種は一部に限られる。障壁の場合、船舶の航行に支障をきたす可能性もある。
イスラエル・テルアビブのスタインハート自然史博物館の甲殻類専門の名誉学芸員ベラ・ガリルによると、多くの外来種については、新天地で静かに生息するか、それとも爆発的に増殖するか、どちらになるのかを予測することはできない。
ガリルは数十年間、スエズ運河を通じて移動する非在来種の侵入を研究してきた。クラゲ、イガイ、フグ、ラビットフィッシュなど数百種が対象だ。彼女によると、ここのクラゲはもともと生息する紅海では集団を形成することが知られていなかった。しかし、地中海では集まって群れになり、浜辺にいる子どもを針で刺し、漁師の漁網の網目をふさいでしまう。淡水化プラントの集水口に粘着性の体が張りつきふさぐこともある。
規制担当者は時折、真剣になって侵入する生物を規制するが、成功までにコストや時間がかかるし、確実に成功するとは限らない、とガリルは言う。「一生をかけた仕事になる。それでも始めなければ、荒れ果てた海だけが残る」
ガトゥン湖上の科学者たちのボートに話を戻そう。ほぼ真夜中になり、ブラーボとサンチェスが投げ入れた漁網を調べる時間になった。彼らは仮眠から目覚めると、ボートが通ってきた暗い水面を戻り始めた。
最初の停止位置で彼らはそれぞれ漁網の一端をつかみ、デッキに引き揚げた。この夜の最初の獲物は太平洋産ウミナマズ。2番目はこれも海水魚のスヌークだった。
漁網を終わりまでたぐり寄せると全体を引き揚げ、揺さぶった。すると、小ぶりのカタクチイワシやトウゴロウイワシが次々とデッキに降り注いだ。「こういうのも海水魚だ。今ではこうした小型魚が湖全体で見つかる」とブラーボが言った。
彼は銀色に輝く魚をファスナー付きのプラスチック袋に滑り込ませ、ラベルを貼ってクーラーに放り込んだ。
他の漁網でも同様に、多種多様な魚がごちゃまぜになっていた。カリブ海産スヌークと太平洋産スヌークが顔を合わせた。細身で上品なレディーフィッシュと顔面が細長いダツはともにカリブ海産。釣りのえさにする魚は在来種と外来種が交ざっていた。
スミソニアンの研究者たちは10年以上、こうやってガトゥン湖の魚を採取してきた。魚眼の水晶体や筋組織、胃の内容物も調べる。サンチェスは魚の内耳で石灰化した組織である耳石を分析しており、これは木の年輪のように環境の生々しい変化を長期間にわたって記録している。
夜が明けると、サンチェスとブラーボはネットをもう一度引き揚げた。夜明けの光はバラ色で美しかった。運河を早朝に通るタンカーと比べると、彼らのボートはおもちゃのように見えた。
ブラーボは変化を続ける湖とその沿岸で暮らす人びとに思いをはせた。
「ちょっと、悲しい。なぜなら、多くの人たちが食料を自給する暮らしのために漁業に専念してきて、他に仕事がなく、これからも魚を取るしかないのだから」。アジ科のように新たに侵入してきた魚種は、駆逐された在来魚よりも漁獲が難しいという。新顔の魚は動きが素早く、攻撃的で、あまり「愚か」ではないとブラーボが言った。
今この時も、ガトゥン湖は変わり続けているだろう。魚種の交雑が続く結果、一部は雑種になるかもしれないし、湖や二つの広大な海洋への影響を予測するのはとても難しいと研究者たちは話している。(抄訳、敬称略)
(Raymond Zhong)©2025 The New York Times
ニューヨーク・タイムズ紙が編集する週末版英字新聞の購読はこちらから