中国籍ではない唯一のパンダがメキシコにいる理由 「繁殖の名門」動物園で長寿を保つ

標高2000メートルを超える高地メキシコ市のチャプルテペック動物園には、世界で唯一、中国が「中国籍」ではないと認めるパンダがいる。メスの「シンシン(欣欣)」。1990年7月生まれの34歳。人間で言えば約100歳に相当する。両国の国交樹立を記念して、1975年に中国からメキシコに贈られたつがいの孫にあたる。
なぜ、シンシンだけが「非中国籍」なのか?
パンダが餌とする竹がいっせいに枯れ、パンダの餓死が相次いで絶滅の危機が心配された1980年代。中国政府は自然保護団体などと協議し、外交上の贈り物としたり、商業目的で短期間だけ展示したりすることをやめて、繁殖研究を名目に長期に貸し出すことにした。「長期国際共同繁殖研究」(ブリーディングローン)と呼ばれる現行制度だ。
1例目は1994年の和歌山・白浜アドベンチャーワールド。日本と中国との国交樹立を記念して1972年以降、パンダを贈られていた東京・上野動物園の場合も、2011年にやってきたリーリー(力力=中国名・比力)、シンシン(真真=中国名・仙女)から「レンタル」パンダになった。世界中に代替わりが広がり、メキシコのシンシンだけが、非中国籍として残ったのだ。
チャプルテペック動物園は、メキシコ市中心部の緑豊かな公園の中にある。100年以上の歴史を持つ。入園は無料。近くにはチャプルテペック城や植物園、博物館などもあり、市民の憩いの場となっている。
私が訪ねたのは2024年8月。周辺でぬいぐるみなどを売る土産店の主役はパンダ。ただ、パンダコーナーに向かうと、お客はそれほど多くない。
シンシンの前で中国人の女性2人組に出会った。中国系IT企業に勤めており、毎月のように出張して来ているそうだ。米国の隣国メキシコでも中国との経済関係は強まっている。メキシコにとって中国は米国に次ぐ第2位の輸入先。中国企業も米国へ輸出する生産拠点としてメキシコに投資を増やしている。世界トップのEVメーカー中国BYD製のウーバーがメキシコ市の街を走っていた。「パンダは好きなんですか」と問うと、「国宝だから。でも、ここのパンダは中国のものじゃない。最後の1頭と聞いて見に来た」。
パンダ舎のわきで、大きな家系図を見つけた。初代のつがいインイン(迎迎)とペペ(佩佩=中国側が用いる漢字名は「貝貝」)との間で、10頭近い出産に成功。朝日新聞(1980年8月13日付朝刊)によれば、チャプルテペック動物園が餌で与えた特製スープの効果に加えて、中国側は「仲がとても悪い」と伝えてきたが、始めから同じ獣舎に同居させたら「夫婦仲は予想以上に良かった」。当時、上野動物園長だった中川志郎氏(故人)も「中国以外ではもっとも成績の良い動物園」と書き残す。チャプルテペック動物園は1980年代、パンダ繁殖の名門だった。
とりわけ、シンシンの母親で、1981年7月に生まれたトウイ(朵蔚)はパンダ史において特別な存在だ。中国外の動物園で生まれ、育った最初のパンダだからだ。東京・上野動物園を含めて、ワシントン、ロンドン、パリ、マドリードなどが中国外での「パンダ2世誕生レース」(1980年8月13日付朝日新聞朝刊)を競い合うなか、メキシコが先んじた。
実は、チャプルテペック動物園は前年も出産には成功したものの、赤ちゃんは8日後に母親の下敷きになって死んでしまっていた。それだけに、トウイの誕生と成長はメキシコ社会を大喜びさせた。公募で選ばれた名前は現地の言葉で「小さな男の子」を意味する。のちにメスと分かるのだが、そんなことは大した話ではなかった。トウイに捧げる歌が作られ、メディアや広告でひっぱりだこに。1993年に12歳で死んだときは、人々は涙に包まれたという。中国紙「文匯報」(2013年6月6日)は「トウイが可愛かったこと以外に、当時のメキシコは左翼思潮が流行しており、中国や中国文化にも親近感があった」と分析する。
チャプルテペックのパンダ一家は、英国やロシア、日本などの動物園との間で子作りに励んだ。2001年から2005年にかけて、上野動物園のオス、リンリン(陵陵)がメキシコへ飛んだり、メキシコからメスのシュアンシュアン(双双)が上野にやって来たりしたこともあった。結果的には実らなかったが、この共同繁殖活動を仲介したのは、米国のサンディエゴ動物園。所有権がそれぞれの国にあった時代は、お見合いも自由度が広かったのだろう。現在は、中国の介在なしにはあり得ない。
がらんとしたパンダコーナーを一回りしていると、初代のペペとインインの剝製(はくせい)があった。2024年3月に死んだ神戸市立王子動物園のタンタン(旦旦)を思い出す。彼女は日本内で剝製にした後、中国に「返還」(王子動物園)される予定だ。「レンタル」になって以降は、遺体になってなお、中国が所有権を持つ。
パンダのつがいのレンタル料は、毎年100万ドル(約1億6000万円)。メキシコが新たに受け入れるなら大金が必要になる。メキシコ政府はポスト・シンシンをどう判断するだろうか。ハンモックに揺られて居眠りしているシンシンの長寿を祈った。