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地下鉄焼死事件の被害者がたどった人生 最後はホームレスになった人気チアリーダー

ニューヨークタイムズ 世界の話題 更新日: 公開日:
裁判所に出廷したセバスチャン・ザペタ
デブリナ・カワム殺害事件の起訴手続きのため、キングス郡高位裁判所に出廷したセバスチャン・ザペタ=2025年1月7日、ニューヨーク市ブルックリン区、TNS/ABACA via Reuters Connect

デブリナと名を変えるまで、彼女はデビーと名乗っていた。

米ニューヨーク市の西方にあるニュージャージー州の町リトルフォールズで育ったデビー・カワムは、だれもがそばにいたいと思う女の子だった。チアリーダーとして、内側から輝いていた。

母校である地元のパサイクバレー地区高校では、廊下ですれ違う生徒たちとハイタッチを交わした。友人たちとドライブに出かけ、レッド・ツェッペリン(訳注=英国のロックバンド)のポスターを背景にポーズをとった。ファミリーレストランの大手チェーン「パーキンス」系列のパンケーキ店で働き、制服を着て客を迎えた。

20代になると、よくパーティーの主役になった。女友達とラスベガスやカリブ海にまで飛行機で出かけ、そのときどきを思い切り楽しんだ。

その後は何年も、何十年も困難な時期が続いた。そして、2024年12月22日。ニューヨーク市ブルックリン区の地下鉄の車内で、見ず知らずの男に火をつけられ、57歳で亡くなった。目をそむけたくなるようなその様子を、ビデオがとらえた。遺体は9日間も身元が分からず、大みそかになってようやく特定された。そこから、深い悲しみが始まった。

彼女が自ら選んだデブリナという名が一斉にニュースで伝えられると、かつての同級生たちは炎に包まれた人影の消しがたいイメージをぬぐい去るためにも、記憶を呼び起こした。

「とてもかわいくて親切だった」とかつてパンケーキ店で一緒に働いたダイアン・リソルディ(57)は振り返る。この仕事を得るのを手伝ってくれたのが、彼女だった。「今でも、黒いスカートにピンクのボタンダウンシャツという制服姿の彼女が目に浮かぶ。いつも、ほほ笑んでいた」

「前途洋々の女の子だった」とスーザン・フレーザーはいう。

その夫でカワムの幼なじみだったマルコム・フレーザーによると、彼女は質素な一戸建て住宅が点在する通りに面した小さな白い家で育った。父親はニュージャージー州リンデンにあるゼネラル・モーターズの工場の組み立てラインで、母親はパン屋で働いていた。兄と姉がいた。

ジョー・ロッコは、よくカワムと一緒に学校から歩いて帰った。休み時間になると、男の子たちはしょっちゅうボールを彼女の方にわざと蹴った。近くに行くための口実だった、と話す。

マーク・モンテイン(57)は、1984年に母校のアメフトチーム、パサイクバレー・ホーネッツの主将を務めていた。このため、ペアを組むチアリーダーがいた。デビー・カワムだった。

「彼女は、まさに明るく輝いていた」。カワムの役目の一つは、試合のある日に彼のロッカーを飾ることだった。「当日になると、いつも何か特別なものがあった。風船だったり、ステッカーだったり」と当時を思い起こす。

モンテインが化学で苦労していると、カワムがノートを貸した。「及第点が取れるように、いつも助けてくれた」

米ニュージャージー州にあるパサイクバレー地区高校。在学中、デビー・カワムはチアリーダーとして輝いていた
米ニュージャージー州リトルフォールズにあるパサイクバレー地区高校。在学中、デビー・カワムはチアリーダーとして輝いていた=2025年1月1日、Bryan Anselm/©The New York Times

高校を卒業して、カワムはキャンパスの一部がリトルフォールズにあるモントクレア州立大学に進んだ。モンテインも一緒で、最初の学期はキャンパスで彼女を見かけた。しかし、ほどなくして彼女は中退し、彼が卒業する前に連絡が途絶えた。

シンディ・セルトシモ・ボウイ(56)は、小学3年生のときにカワムと知り合った。20代を親友として過ごし、よく一緒に旅をした。

「ジャマイカやメキシコのカンクン、バハマ諸島、ラスベガスに行った」とボウイ。「夜はクラブに行ったり、昼は日光浴をしたり。家に帰ると次の旅行を予約して、3年間もあちこち飛び回り続けた」

ボウイによると、カワムはいつも働いていた。ただし、一つの仕事を長く続けることは、そうはなかった。「彼女はしばらくの間、職を転々としていた」と今は学校の食堂を運営するボウイはいう。カワムの勤め先の一つに、ニュージャージー州マーワーにあるシャープ・エレクトロニクスの本社があったことを覚えている。

カワムは、ときに両親と対立することもあった、とボウイは語る。「『白』といわれれば、『黒』と答えるといった逆らい方で、若気の至りだったのかもしれない」と見ている。

カワムの家族には取材を申し込んだが、応じてもらえなかった。

そのうちにボウイは、落ち着いた暮らしを始めるようになり、この親友との連絡は途絶えた。

それ以降のカワムの暮らしぶりについて詳しい状況を知ることは、さらに難しくなる。30代で、製薬会社メルクのカスタマーサービスの担当を数年間していたことが分かっている。

2000年ごろには、電力会社に勤める男性とつき合い始めた。2人の住まいは、カワムが子どものころを過ごした家から通りを下ったパサイク川沿いにあった、とこの男性の元妻はいう。2003年に法律上の名前をデブリナに変えた。

しかし、2008年にこの男性と別れた。自宅が差し押さえられたころだった。当時は失業期間が生じるようになっていた。酒に酔って警察のやっかいにもなり始めた。その年には、自己破産を申告。資産は800ドル相当のクライスラーの乗用車ダッジ・ネオン1台と300ドル相当のテレビと布団、それに何着かの衣類しかなかった。

リトルフォールズにあったカワムの実家も売り払われた。その数年後、フレーザー夫妻はカワムとばったり出会った。「取り乱して、何かでハイになっているようだった」と夫のマルコムは語る。

カワムは最後の十数年間のほとんどをニュージャージー州の南部で過ごした。そのうち数年間は、ある男性と大西洋岸のトムズリバーで暮らした。しかし、この男性は後に別の女性と結婚した。男性はすでに亡くなっており、残された妻は、亡夫がカワムとの関係について「混乱の極みだった」と形容していたと話す。

カワムは、そこから1時間ほど南にあるアトランティックシティー(訳注=ニュージャージー州の都市で、米東海岸最大級のカジノがあることで有名)にもかなり長く滞在していた。裁判所の記録には、2017年から2024年にかけて、公の場で飲酒したとして何度も召喚状が出されたことが残っている(訳注=米国では屋外や公共の場での飲酒が原則禁止されている)。

トムズリバーにはカワムの母親も住んでいた。近所の住民の一人は母娘と面識はなかったが、カワムぐらいの年齢の女性が出入りしていたと証言する。若い方の女性が出歩くときは、助けが必要だという感じで年配の方が手を引いていたと話す。

カワムは、2024年の秋にニューヨーク市内に来た。どうやら住まいはないようだった。11月29日にマンハッタン区のグランドセントラル駅でホームレスを支援するグループと出会い、翌日に女性用の一時避難施設に入った。2日後、隣接するブロンクス区のシェルターを割り当てられたが、姿を見せることはなかった。

そして、12月22日。いてつくような寒い朝だった。カワムは、ブルックリン区コニーアイランドにある地下鉄F系統の終点に止まっていた車両の中で眠っていた。すると男が近づき、一言も発せずにライターで火をつけた。

男は、セバスチャン・ザペタ(33)。警察によると、カワムが炎に包まれる様子をしばし眺めており、その後、殺人罪などで起訴された。

ニューヨーク市警が公開した監視カメラの画像。セバスチャン・ザペタが写っていた
2024年12月22日、ニューヨークの地下鉄車両で火を付けて殺害されたデブリナ・カワムの事件で、ニューヨーク市警(NYPD)が公開した監視カメラの画像。後に逮捕されたセバスチャン・ザペタが写っていた=NYPD提供、Reuters

言葉では表せない、驚くべき訃報(ふほう)が突然舞い込み、かつての同級生たちは打ちのめされた。ぼうぜんとなり、やりきれない気持ちがこみ上げた。

「いったい、どんな魔物が彼女にとりついたのか。なぜ、こんなことになってしまったのか。本当に見当もつかない」と元アメフト選手のモンテインは首を振った。そして、「もし私たちが知ってさえいたら……」と悔やむのだった。(抄訳、敬称略)

(Andy Newman and Shayla Colon)©2025 The New York Times

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