熊野古道は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)だけでなく、伊勢神宮(神道)や、高野山(真言密教)、それに金峯山寺(修験道)などをつなげている道で、さまざまな宗教の聖地を結ぶユニークさが特徴です。世界遺産への登録でもこの点が高く評価されました。
熊野は伊勢、出雲とともに日本の三大聖地と言われます。聖地は祭られている祭神の歴史や背景が重要です。でも、熊野が祭る家津御子大神(けつみこのおおかみ)、速玉大神(はやたまのおおかみ)、夫須美大神(ふすみのおおかみ)の三つの神は『古事記』や『日本書紀』に出てくる神々とは別の系統にあります。
共通する神話はなく、熊野について書かれた伝承もほとんどありません。世界的に見ても、これくらい祭られた神についてわからない聖地も珍しい。こうした「わからなさ」が熊野のおもしろさでもあります。
ただ、神道や仏教伝来の前から、熊野には山岳修行者たちが集まっていたようです。「御堂」というほこらのような場所に集まって祈りを捧げ、集団生活をしていたらしいことがわかっています。
10世紀になると、紀行文の中に、京都から現在の熊野古道の中辺路を通って熊野本宮大社へ行くと、山にこもっている修行者が200、300人集まっていた、と記した記録があります。
「御堂」というほこらのような場所に集まって祈りを捧げ、集団生活をしていたらしい。熊野は、身体修行を通じて何かを得たいという人たちが大阪や京都から集まり、修行をする場所だったようです。
それは先祖や自然への崇拝で、それこそ日本の宗教の原初的形態だったのかもしれません。その後も、熊野では神道、修験道、浄土教、観音信仰などさまざまな宗教が矛盾なく共存してきました。その多様な信仰の場を結ぶ道が熊野古道でした。
熊野は「男女を問わず、貴賤(きせん)を問わず」と言われるように、性別も身分も関係なく、だれもが参拝することができました。
中世に書かれた『高野山文書』には、熊野は外国の神を祭り、男と女が入り交じって猥雑(わいざつ)な地、と熊野を批判したくだりもあります。当時、ここまであらゆる人を受け入れた聖地は珍しかったのでしょう。
多くの人が熊野古道を歩くようになったのは院政期からで、宇多上皇が延喜7年(907年)に上皇として初めて詣でて以降流行になり、後白河上皇は33回(34回の説も)熊野詣(熊野御幸という)に行ったといいます。
途中には川を渡る場所や断崖などもあり、当時の熊野古道はかなり厳しい道のりで、旅の苦労も記録されています。
そんな場所になぜわざわざ多くの上皇が行ったのか。一つは、熊野が天皇を中心とする権力中枢と対抗勢力的にかかわってきたことがあげられます。天皇家の力がもっとも高まったのは白河上皇の院政期でした。その後、次第に武家勢力が台頭して衰退するようになりますが、あくまでも上皇による熊野御幸は、宗教的で神秘的な力の獲得を目指したものだったと言えるでしょう。
熊野詣はやがて、庶民の間にも広まっていきました。熊野に浄土信仰が広がり、阿弥陀の浄土として人を引きつけました。
熊野詣が最盛期を迎えたのは室町末期(15世紀後半)で、「蟻の熊野詣」と呼ばれたのはこのころです。しかし、16世紀には次第に衰退しはじめ、「お伊勢参り」に取って代わられるようになります。当時の伊勢は神仏混淆(こんこう)で、伊勢の方が地の利がよく、行きやすかったことも要因でしょう。
熊野は自然崇拝から、仏教、神道、修験道まで、あまり区別されることもなく、対立することもなく存在してきました。神仏がともに親しまれ、それを受け入れる柔軟さが、むしろこの国の宗教を形作ってきたと言えるでしょう。
これが大きく変わるのは、1868年の神仏分離令に始まる、行政の宗教への介入でした。宗教や教義にとらわれずに神も仏も同じように信じてきた日本のおおらかな宗教風土は、その後本質的な変容を迫られます。でも、熊野にはまだその根源が残っており、こちらのほうが、本来の日本の宗教のありかただったと考える人も多くいます。
これまで熊野古道のさまざまなルートを全て歩きましたが、これほど自然と人間が身近に思える聖地は多くありません。森の中を歩いて耳を澄ませ、感覚を研ぎ澄ませることで、自然と人間が原始的なレベルで出合う場所です。外国から観光客がわざわざ来るのも、歩くことで体感できるそうした感覚があるからでしょう。そうしたものの価値を、日本人より、海外の人のほうが見いだしているのかもしれません。