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消えた仁王像 出雲の「村の宝」がオランダで展示の謎 数奇な運命がむすんだ人々の縁

World Now 更新日: 公開日:
アムステルダム国立美術館のアジア館に展示されている仁王像。その故郷は島根県仁多郡奥出雲町にある岩屋寺だ
アムステルダム国立美術館のアジア館に展示されている仁王像。その故郷は島根県仁多郡奥出雲町にある岩屋寺だ=2023年6月、筆者撮影

ヨーロッパ唯一の仁王像は、アジア館の目玉

アジア館地下ギャラリーの一番奥で、静かににらみをきかせて来館者を待ち受ける阿形像と吽形像は、身の丈2メートル37センチの木像だ。

美術館によれば、作者は不明で14世紀に造られたものらしい。阿形像の後頭部内側にある墨書から、すでに廃寺となった島根県仁多郡奥出雲町にある岩屋寺(いわやじ)にあったものと判明している。

そして、この墨書と岩屋寺の古文書から、運慶や快慶を生んだ「慶派」の仏師康秀(こうしゅう)が像の修復を行っていたこともわかった。日本の古美術は、出所を明かさずに売買されることが多いらしく、このように詳細が明らかになることは珍しい。

2004年、アジア館のチーフキュレーター、メノー・フィツキさんは、京都の古美術商でこの仁王像を見つけた。

「2メートルを超えるサイズ感が良く、美術館にふさわしい作品だと思いました。威厳と迫力も素晴らしい。ヨーロッパでは、日本美術というと禅の静的なイメージのものばかりと思われがちですが、このようなダイナミックな芸術もあることを紹介したいと思っていました。2007年、2億円で購入しました」

しかし、2008年にオランダに到着した仁王像を待ち受けていたのは、5年にわたる所蔵庫「住まい」だった。工期5年を予定していた美術館改築工事が、延びに延びて10年がかりになってしまったからである。

オランダ到着早々、本来の仁王像のあり方とはかけ離れた冷遇を強いてしまったことに心を痛めたメノーさんは、2013年春のリニューアルオープンから半年後の10月13日、京都大覚寺の僧侶20人を美術館に招き、盛大な開眼供養式を執り行った。改めて像に魂を吹き込むと同時に、同館が仁王様の安らかな終のすみかとなるようにと祈ってのことだった。

2013年に執り行われた仁王像の開眼供養式の様子
2013年に執り行われた仁王像の開眼供養式の様子=2013年10月13日、アムステルダム国立美術館、筆者撮影

メノーさんによれば、欧州の美術館で本物の仁王像を所蔵するのはこの美術館だけ。

この仁王像は老若男女を問わずファンが多く、マンガやアニメの登場人物さながらのいでたちは、日本や日本アートを身近に感じさせることにも一役買っている。

この像を見たことがきっかけで柔道を始めた子供もいたし、仁王の姿を腕にタトゥーした人もいた。岩屋寺の仁王様をテーマにした絵本も生まれている。この作品には、見る者を覚醒させて新しいストーリーを紡ぐ力を授ける、なにやら不思議な魔力があるようだ。

メノーさんが心を打たれたという、こんなストーリーもある。

彼のレクチャーにも頻繁に足を運んでいたある男性は、長年重度のパーキンソン病を患っていた。安楽死を決め、亡くなる1週間前のこと。家族で来館し、閉館後に皆で仁王像の前に座ってひとときを過ごした。阿形像と吽形像が示唆する叡智の世への旅立ちを目前にした男性は、仁王様から希望を授けられたと話していたという。

アムステルダム在住の彫刻家イッケ・ファン・ローンさんもまた、この仁王像に突き動かされて人生を変えた一人だ。彼女は今、仁王像の故郷に新しい仁王像をお返しするという一大アートプロジェクトに取り組んでいる。

アムステルダム国立美術館キュレーターのメノー・フィツキさん
アムステルダム国立美術館キュレーターのメノー・フィツキさん=2024年1月10日、筆者撮影

「美術館は、仁王像の居場所ではない」

美術館で初めて仁王像を見た時のことを、イッケさんはこう振り返る。

「あの像は、2体の間を通り抜けたり、ぐるりと後ろに回り込んだりしながら“体験”されるように作られている。私は彫刻家だからよくわかるんです。でも美術館では、真っ白な壁の前に背中がくっつきそうな状態で、息苦しそうに立っている。だから、本当は見る者を威嚇し、挑発しようとしているはずなのに、私たちはそれをうまく受け取ることができない。とても不自然な印象でした。それに、地域と信仰のつながりという文脈で役目を果たすために作られたものが、四方を白い壁で囲まれた展示室でスポットライトを浴び、美術品として鑑賞されているのもおかしいと思いました」

美術館は、仁王様の居場所ではない。

木像の表情や動きのある表現に強い感動を覚えながらも、彼女の心には大きな疑問が残った。

イッケさんが、初めて岩屋寺を訪れたのは2015年。その後、幾度も奥出雲に通う中で、700年近くも寺と村人たちを守ってきた仁王像が消え、地域の人々が大きな喪失感を抱いていたことを痛感した。仁王像と村人の間にあった絆を、売却という形で断ち切ってよいと考えた人物の意図が、彼女には理解できなかった。

アムステルダム在住の彫刻家イッケ・ファン・ローンさん。後ろに見えるのは崩壊寸前の岩屋寺の仁王門
アムステルダム在住の彫刻家イッケ・ファン・ローンさん。後ろに見えるのは崩壊寸前の岩屋寺の仁王門=2023年11月22日、島根県仁多郡奥出雲町、筆者撮影

「アムステルダムの仁王像をここに戻すことができないのなら、せめてその魂だけでも返したい」

そう考えた彼女は、「Issho-ni/Tomo-ni(re-creating pure wisdom, together!)」と銘打ったアートプロジェクトをスタートさせ、アムステルダムと奥出雲の両地を拠点に新しい仁王像の制作に取りかかったのである。

新しい仁王像は、皆で絵付けをしたタイル画

イッケさんが制作しているのは、540枚のタイルに等身大の仁王像を描いたタブロー。オランダの伝統工芸デルフト焼きの絵付け技術を用いた、鮮やかなデルフトブルーのタイル画で、「ブルーNio」のニックネームで呼ばれている。

「Issho-ni/Tomo-ni」プロジェクトで制作された、タイル画の仁王像。奥出雲町のコミュニティーセンターに展示されていた。像の側面も制作される
「Issho-ni/Tomo-ni」プロジェクトで制作された、タイル画の仁王像。奥出雲町のコミュニティーセンターに展示されていた。像の側面も制作される=2023年11月21日、島根県仁多郡奥出雲町、筆者撮影

絵付けをしたのは、アムステルダムと奥出雲の住民合計約400人。「いっしょに、共に」というプロジェクト名が表すとおり、国境を越えた共同制作だ。

「参加者それぞれの思いが、像とのつながりを創り出す。だから皆で作ることが重要だと思いました。私は彫刻家だから、自分で新しい仁王像を作ることもできた。でもそれでは意味がない」とイッケさんは言う。

メノーさんも奥出雲で絵付けに参加した。その折りに、岩屋寺の仁王像をアムステルダム国立美術館に展示できることを光栄に思い、深く感謝していることを町民たちに伝えた。

日本とオランダ間の交流を深めながら、2年がかりで2体の前面と背面、合計四つのタイル画を完成させたのは2019年。その後のコロナ禍で中断したものの、同プロジェクトは今、2025年のフィナーレに向けて2体それぞれの側面部分も制作して立体にし、仁王門に収めるべく進行している。

そんな彼女の活動は、両国間の学生文化交流の契機になったほか、「Nioフェスティバル」という恒例イベントも生み出した。

昨年11月、3度目となるNioフェスティバルの時期に奥出雲を訪れた私は、天真爛漫で情熱家のイッケさんが粘り強く町民に働きかけ、一度は幕を閉じた廃寺岩屋寺の歴史に、新たな1ページを刻む様子を目の当たりにすることになった。

恒例となったNioフェスティバルの開幕を告げるイッケさん(中央)
恒例となったNioフェスティバルの開幕を告げるイッケさん(中央)=2023年11月24日、筆者撮影

1250年以上の歴史を持つ古刹だった岩屋寺

残存する古文書によれば、岩屋寺の歴史は天平勝宝年間(749〜757)にまでさかのぼるという。飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した高僧・行基(668~749)が開祖といわれ、聖武天皇勅願所でもあった。

鉄の神話の舞台にもなった奥出雲では、古代から、良質な砂鉄と豊かな森林資源によって日本刀の原料となる玉鋼(たまはがね)を生産してきた。岩屋寺は、この製鉄技術の繁栄から利益を得た支配者たちに守れてきた寺だ。

傷みの激しい岩屋寺
傷みの激しい岩屋寺=2023年11月22日、島根県仁多郡奥出雲町、筆者撮影

オランダに渡った仁王像の他にも、多くの美しい仏像を所有していた。

例えば、色鮮やかな四天王像。1979年に愛知県指定文化財となり、同県津島市の浄蓮寺が所蔵している。作者は、仁王像の修復も手がけた慶派の仏師康秀で、制作年は1539年。修補も少なく、彫刻史上も重要な価値を持つとされる。

個人蔵となった毘沙門天像は、現在アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館にある。同館公式サイトの作品説明によれば、制作年は平安時代の1124年。“この彫刻は、かつて中世日本の宗教の要地であった岩屋寺で崇拝されていた”とある。

岩屋寺の開祖である行基の木像は、カナダ・モントリオール美術館蔵という噂もあったが確認したところ事実ではなく、現在の所在はわからない。

国内外に散った美術品の多くが文化財級の芸術性を持つことから見ても、岩屋寺がどれだけ格式高い寺であったかがうかがえる。

「出雲高野山別格本山岩屋寺」と書かれた表札。修行僧でにぎわう由緒ある寺だった
「出雲高野山別格本山岩屋寺」と書かれた表札。修行僧でにぎわう由緒ある寺だった=2023年11月22日、島根県仁多郡奥出雲町、筆者撮影

消えた仁王像、「二束三文で売り払われた」という噂

かくいう私も、仁王像に導かれてしまった一人だ。

初めて岩屋寺を訪れたのは2014年。開眼供養式に運良くカメラマンとして立ち会い、臨席した招待客の誰よりも間近で供養の始終を見守った翌年のことである。

式後に行われたレクチャーの中で、メノーさんのこんな言葉を聞いた。

「2007年に初めて岩屋寺を訪れたとき、その参道を守っていた仁王像が不遇な状況の中で持ち去られたであろう様子がうかがえました。仁王門の側面には、像を取り出したと思われる大きな穴が空いていた。それを見た時、どんなに素晴らしい芸術作品にも自らの身を守る術はないことを再認識し、もの悲しい気持ちになりました」。これが妙に記憶に残っていたことから、奥出雲へと足を伸ばすことにしたのだ。

当時イッケさんのプロジェクトはまだ始まっておらず、岩屋寺の仁王像がアムステルダムにあることは、ちらほらと町の噂になっていた程度だった。

幾度も電車を乗り継ぎ到着した出雲横田駅に降り立ち、駅待合室にいた観光案内の方に岩屋寺への行き方を尋ねると、「あそこへは行けませんよ」と言う予想外の答え。

そうこうしているうちに集まってきた役場の職員とおぼしき人たちも皆、「行くな」と口をそろえた。怪訝に思いつつも、はるばるアムステルダムから来たのだから諦めるわけにはいかないと粘ると、「あそこは私有地で整備されていないから危険。絶対にやめた方がいい。でもどうしてもというのなら、スズメバチやマムシがたくさんいるから、ホームセンターで長靴とゴーグル、白い防護服を調達して着て行け」と、安全対策のアドバイスを受けた。

翌日、爽やかな秋晴れの中、私は除染作業員さながらのいでたちで、岩屋寺を目指したのである。

長くて急な石段を登った先に建つ岩屋寺
長くて急な石段を登った先に建つ岩屋寺=2023年11月22日、島根県仁多郡奥出雲町、筆者撮影

寺は、荒廃した中にも凜とした威厳のある美しい佇まいだった。世が世なら文化財にもなっていただろうと想像され、よそ者ながら廃寺であることが惜しまれた。

帰りの電車を待つ間、昔の岩屋寺のことをよく知る長老とお話をする機会に恵まれた。

子供の頃から親しんできた仁王像がアムステルダムにあることをつい最近知ったと言うので、アジア館の目玉になっていると伝えて、持ち歩いていたPCにあった開眼供養式の写真を見せた。

「え!2体ともアムステルダムにあるのかい?」

驚いた長老の顔を見た時のことは今でも忘れられない。まるでこの町の宝を、私が住むアムステルダムが取り上げてしまったかのような罪悪感におそわれてしまった。

「仁王さんは、昭和50(1975)年前後に忽然と姿を消してしまった。二束三文で売り払われたって噂だよ。それからはずっと、どこに行ったのか誰にもわからなかった。仁王門の中にあった時は暗かったし、わしらはいつも下から見上げていたから、こんな風に正面から全身を見たのは初めてだ。返してほしいとは思うが、ここにあっても誰も管理はできない。アムステルダムで大切にされるのがいいんだろうねぇ」

そうため息交じりにつぶやくと、町民との溝が深まり財政難に陥った末、財宝を売り尽くしたあげくに土地も手放して廃寺となったという岩屋寺の“黒歴史”について話してくれた。なぜ皆が口をそろえて「あそこへは行くな」と言ったのかが、ようやくわかった。

封印された岩屋寺の「黒歴史」

ブルーNioの絵付けに参加した森山成夫さんも、その“黒歴史”には詳しかった。
私が10年前に会った長老と同年代、あるいは少し年下かもしれない。1932年生まれで、現役の時には雲州そろばんの製造販売をしていた。

1932年生まれの森山成夫さん。昔の岩屋寺住職と交流があり、寺の歴史に詳しい
1932年生まれの森山成夫さん。昔の岩屋寺住職と交流があり、寺の歴史に詳しい=2023年11月22日、筆者撮影

「昔の岩屋寺や住職のことは、よく覚えている」と言う。

森山さんによれば、島根県の中でも規模が大きく格式もあった岩屋寺だが、檀家の数は少なかった。そのかわり資産が多く、所有していた田畑を小作農に貸して収益を得ていたという。しかし戦後、GHQ占領下の農地改革で地主の農地が小作農に再分配されることになると、檀家でもあった小作農たちとの間に軋轢が生じ、トラブルが続いた。

森山さんの実家も檀家だったが、土地がらみの利害関係がなかったことから、寺とは良好な関係にあった。

戦後しばらくは、寺は所有していた山の木を切って売っていたが、それも尽きてくると次は仏像を売り払っていく。住職が世代交代した後のことだ。土地も手放し廃寺になった後、新しい土地の所有者を巡って不明瞭で怪しげな噂が広まり、誰も近寄らなくなった。そして、話題にすることすらタブー視されるほど、隔絶された存在になっていったということらしい。

「仁王さんは仏さん。村の宝だった」

先代住職と交流があった森山さんは、よく寺の手伝いをしていた。

中でも、二十歳前後に仁王門の雨漏り修理を手伝ったことは思い出深く、以来ずっと仁王像に関心を持ち続けることになった。

「その時、私は仁王さんに触ったんですよ」と森山さん。

「仁王さんは仏さんですから、仁王門の中に安置したまま屋根の修理なんかしたら頭の上をまたぐことになりますからね、そんなことはできないんですよ。いったん像を外に出さなければなりません。でもそのまま外に出すわけにはいかない。ご供養して一度魂を抜いてからでないと、仏さんに触ってはいけないんです」

ご供養のあと、しっかりと手を合わせて仁王門に入った森山さんが像を動かそうと頭部をつかむと、頭が胴体からするっと外れてしまった。組み立て式だとは知らなかったので、驚いたという。

頭が外れてむき出しになった首のあたりに墨で何か書かれていたが、あまり気には留めなかった。今思えば、何が書いてあったのかしっかりと確認しておけばよかったと悔やまれる。

本堂の屋根の修理を手伝った時には、数人の男衆で毘沙門天像も担いだ。

「あれはびっくりするほど重たかった。でも素晴らしい極彩色の仏像でね、今でも忘れられませんよ」

そんな思い出の仁王像も毘沙門天像も、ある日突然、寺から消え、村人の知らぬ間に国外に流出した。

「寺のものとは言っても、あれは村の宝でしたからね。外国へ流れてしまったことは本当に残念だと思いますよ。外国にあると知った時には、いい気持ちはしなかった。もし今でもここにあったら、観光の目玉になって町おこしに一役買ってくれたかもしれないのに」と森山さん。

だが、こうも感じている。

「仁王さんがオランダに行ってしまったことは残念だが、世界的に有名な美術館で大切にされて、文化大使として日本や奥出雲のことをヨーロッパの人たちに伝えていると思えば、誇らしくもあります。立派な開眼供養をしてくれたことには感謝もしている。そしてイッケさんがこの町にきて、町民たちの気持ちやこの町の歴史を大切に考えてくれて、新しい仁王像を返してくれるというのだから、これでよかったと思えるようにもなりましたよ」

岩屋寺の裏にある巨石に上ると、奥出雲が一望できる。岩屋寺周辺には「切開(きりあけ)」と呼ばれる小規模な峡谷があり、国の天然記念物に指定されている
岩屋寺の裏にある巨石に上ると、奥出雲が一望できる。岩屋寺周辺には「切開(きりあけ)」と呼ばれる小規模な峡谷があり、国の天然記念物に指定されている=2023年11月22日、筆者撮影

イッケさん、岩屋寺を買う

一方、寺の過去は、イッケさんのプロジェクトの行く手も阻んでいた。

最大の難関は、“ともすれば裏社会の人かもしれない”との噂もあり、調べることすらタブー視されていた土地所有者だ。

だが、崩壊寸前の仁王門を改修しブルーNioを設置するには、所有者の許可は不可欠。寺とかかわりたくないという町民の気持ちは理解できるものの、岩屋寺1250年以上の歴史を闇に押し込んだ過去に終止符を打つためにも、このプロジェクトは成功させたい。イッケさんと支援者は登記簿を調べ始めた。

そしてついに見つけ出した所有者が、昨年11月のNioフェスティバルで町民の前に現れたのである。

岩屋寺の所有者だった鈴木道廣さん(右)。大工の鈴木さんは、棟梁から受け継いできた法被を友好の印としてイッケさん(左)に贈呈。「自分には跡継ぎがいない。この法被は、是非イッケさんに引き継いでほしい」と話した
岩屋寺の所有者だった鈴木道廣さん(右)。大工の鈴木さんは、棟梁から受け継いできた法被を友好の印としてイッケさん(左)に贈呈。「自分には跡継ぎがいない。この法被は、是非イッケさんに引き継いでほしい」と話した=2023年11月24日、筆者撮影

それが、大阪で建設会社を営む鈴木道廣さんだ。鈴木さんはこの日、朝3時に大阪の自宅を出て、6時間車を走らせて奥出雲に来ていた。これまで岩屋寺を放置していたことに対する謝罪と、つい先日その所有権をイッケさんらに譲渡したことを町民に報告するために。

1996年、鈴木さんは、倒産寸前で困っているという知人の頼みで、岩屋寺とその土地を一度も見ることなく購入していた。ちょっとした投資のつもりだった。だが後日実際に足を運んでみると、寺の傷みはひどく、頭を抱えてしまった。

「私は大工ですからね、見てすぐにわかりましたよ。これを直すのは並大抵じゃないって。その頃は子供も小さかったし、私にも生活があった。この上修繕までの投資をする余裕はなかった。これが放置することになってしまったきっかけです」

一見無謀にも思える買い物ではあったが、「ご縁を大事に生きている」という鈴木さんには、この決断を後押しする理由があった。

「私が10歳の時、うちに托鉢のお坊さんが来たんです。そして私を見るなりこう言うんですよ、おまえは40歳くらいで寺と深く関わることになるだろうって。その時は子供ですし、なんのこっちゃと思いましたが、岩屋寺購入の話が来た時の私は42歳。すぐさまお坊さんの言葉を思い出して運命を感じてしまったんですよ。ああ、このことか!ってね」

初めてイッケさんからプロジェクトの説明を受けた時、鈴木さんは仁王門の使用を快く許可していた。お金はいらないから、好きに使っていいよと。

だがその後、将来的な管理のことなども考えると、町民の信頼を得るためにもいったんイッケさんがこれを買い取ることが望ましいという町側の提案から、話は購入へと進んでいく。

決して裕福ではない彼女にとって、それは大きな決断だった。

真摯にプロジェクトに取り組む彼女の心意気に感銘を受けた鈴木さんは、約30年前に自身が支払ったのと同額で所有権を譲渡することを決めた。

「彼女と色々話している中で、岩屋寺に対する町民のタブー視が払拭されないのには、自分にも責任があると感じました。よく考えずに購入し、長い間放置してしまった。このお詫びをみなさんに伝えることで、はるばるオランダから来て頑張るイッケさんのプロジェクトが町全体から応援されるようなればいいなと思って……」

そう説明すると、鈴木さんはイベント会場へと向かって行った。

岩屋寺の所有者だった鈴木道廣さん
岩屋寺の所有者だった鈴木道廣さん=2023年11月、筆者撮影

後日、鈴木さんはイベントの様子をこう振り返った。

「(長年、私の素性を知らずにいたこともあり)町民のみなさんは、私が裏社会か何かの怖い人だと思っていたようでした。でもその誤解も解け、岩屋寺がイッケさん側に譲渡されたことで安心されたと思います。これも、イッケさんたちが築き上げてきた成果。そして購入してから28年間、岩屋寺を他の人に売らなくてよかったと思いました。これからも、クラウドファンディングなどを通して彼女のプロジェクトを支援していきたいと思っています」

Nioフェスティバルには他県から訪れた人もいた。森山成夫さんの姿も(前列左)
Nioフェスティバルには他県から訪れた人もいた。森山成夫さんの姿も(前列左)=2023年11月24日、筆者撮影

町の将来を見据える、プロジェクトの支援者たち

右も左もわからない上に、言葉も通じないまま一人で奥出雲にやってきたイッケさんは、今では町の人気者だ。どこに行っても「おつかれさ〜ん」と声がかかる。

そんな彼女には、頼もしい地元の支援団がある。

寺の過去から、町民の間でも割れているプロジェクトに対する意見をとりまとめると同時に、ブルーNio設置後の管理など長期的なことも視野に入れた支援を考える良き理解者たちだ。

プロジェクトの支援をするメンバーの一部。左から峯石光則さん、柴田宣一さん、内田咲子さん、イッケさん
プロジェクトの支援をするメンバーの一部。左から峯石光則さん、柴田宣一さん、内田咲子さん、イッケさん=2023年11月21日、筆者撮影

中でも峯石光則さんと柴田宣一さんは、2018年ごろからプロジェクトに深く関わっている。75歳の2人は同級生だ。

「岩屋寺のごたごたは、わしらの親の世代におこったこと。寺の裏で栗拾いをした思い出とか、にぎやかな祭りのこととか、わしらにとっては、岩屋寺は楽しい思い出しかないよ。色んな言われ方していた寺だけど、長い歴史があって、いい思い出もある。それは後世に残していかなきゃ惜しいって考えていた。そんな時にイッケさんが来てくれた」とは、岩屋寺のふもとで生まれ育ち、今もそこで暮らす峯石さん。

その峯石さんの顔を見ながら「上のほうからにらんでいた仁王さんは、怖かったよねぇ」と笑う柴田さんはこう続ける。

「あんまり怖いので、小さい頃は仁王門を通る時うつむいて早足で駆け抜けましたよ。参道を行くみんなの邪気を払うという役目をしっかり果たしていましたから、本当に怖かった。国立美術館の仁王さんの写真を見たとき、“小さい頃に見た怖い顔だ“と思いましたけど、アートとして飾られている姿には違和感がありました」

2人は、初めて仁王像がアムステルダムにあるとわかった時、どうしたら取り戻せるだろうかと案を練った。

だが、峯石さんは言う。

「億単位の値段がついたと聞いていたし、取り戻すなんてどうやっても無理な話だ。それに、岩屋寺の仁王さんは確かに立派だけど、日本にはもっと立派な仁王さんがたくさんあるし、珍しくはない。でもヨーロッパにあるのはうちの仁王さんだけだから、唯一の存在として貴重がられて、付加価値がついて大切にされている。それは幸せなことかもしれないよ」

そして、自分の言葉に噴き出しながら、嫁に行った先で幸せになってくれよと願うような気持ちだと笑った。

近寄ってはいけなかったはずの岩屋寺だが、2014年に私が訪れた時には、新品同様のホウキが本堂の横に立てかけてあった。そしてみなが好きなことを書き残していけるノートには、「久しぶりに掃除に来ました」「除草剤をまいておきました」とか、「また来られてよかったです」といったメッセージが、真新しい筆跡で記されていた。

岩屋寺に置かれていたノート。寺の手入れをしていた人によるメッセージもあった
岩屋寺に置かれていたノート。寺の手入れをしていた人によるメッセージもあった=2014年、筆者撮影

そんな話を2人にすると、「そうそう、誰かが定期的に掃除をしていました。あれってあんただったんでしょう?」と柴田さんが問いかけると「いやぁー違うよ、わしじゃない」と峯石さん。

タブー視されながらも、岩屋寺はひっそりと愛され続けていたようだった。

柴田さんはしみじみと言う。

「おそらく、岩屋寺の祭りなど実体験として楽しい思い出を持っているのは、私たち世代までだと思いますよ。その後の人たちは、親から聞いたことしか知らない」

代々続く和菓子屋を運営する傍ら、地元の歴史を調べている51歳の内田咲子さんは、「その後の人たち」のひとりだ。昨年夏からプロジェクトの支援を始め、ブルーNioや仁王門の持続可能な維持管理の仕組みを模索している。

「奥出雲の人口は、今は約1万1000人ですが、20年後には約7000人、そして私が90歳になる頃の40年後には約3000人になると予測されています。少子高齢化と人口減少では、世界最前線の地域。地元の将来が本当に心配です。私も若い頃は、外国や都会のほうがかっこよくて面白いと思っていた時期もありました。でもじっくり調べ始めると、奥出雲は本当に面白い場所。豊かな自然と資源があり、古代から続くたたら製鉄がある。だから昔から人と権力が集まり、それをとりまとめるためにお宮やお寺がたくさんできた。岩屋寺もそんな歴史から生まれた場所です。町の人たちにとってはどれも当たり前にあるものだから、誰も気にも留めていなかった。そんな地元の素晴らしさを再発見させてくれたのかイッケさんでした。地元の人たちが手を出せずにいた岩屋寺のタブーも、イッケさんが解き放ってくれた。これからは、今まで封印されていた本来誇るべきだった歴史を取り戻そう、そして未来に進もうという気持ちでこのプロジェクトを支援しています」

オランダにわたった仁王像の役目を引き継ぐ「ブルーNio」

多くの理解者を得て制作が続くブルー仁王だが、完成までの道のりはまだ長い。

当面の課題は、崩壊し始めた仁王門を再建することだ。

崩壊寸前の岩屋寺の仁王門は、いったん解体された後、再構築される予定だ
崩壊寸前の岩屋寺の仁王門は、いったん解体された後、再構築される予定だ=2023年11月22日、筆者撮影

「まだまだ問題は山積み。でも2025年には、側面もできて立体になったブルーNioを仁王門に設置して、アムステルダムの仁王像と同じ10月13日にアートによる開眼供養をしたいと思っています」とイッケさん。その後は、岩屋寺と土地の所有権を譲渡し、ブルーNioを引き継いでもらえる地元の個人あるいは団体を探していきたいと、今後の展望を語る。

「作品にまつわるストーリーは、作品を豊かなものにする。それがよい話でも、悪い噂であっても」とはメノーさんの言葉。

起源や由来がはっきりとしていたことで生まれた数多くのストーリーや人々の感情は、一つ残らず仁王像の豊かさとして刻まれていく。そしてブルーNioは、その波瀾万丈のストーリー全てを受け継いで、岩屋寺と町の将来を見守っていくことになる。

故郷を遠く離れたアムステルダムの仁王像も、これでようやく安堵できるのではないだろうか。