ドイツとの国境に面したオーストリアのこの町には、15世紀に建てられた教会の塔がそびえている。石畳の通りには、緑、ピンク、青など色とりどりのすてきな家並みが散在する。
ところがこの町は、大きな歴史問題を抱え込んでいる。ザルツブルガー・フォアシュタット15にある建物の上の階で1889年4月20日、アドルフ・ヒトラーが生まれたのだった。
イン川のほとりにある町ブラウナウ(Braunau am Inn)。歴史教師のアネッテ・ポンマー(32)は最近のある午後、「ザイラー・カフェ」に座って、通りの反対側に立つ3階建ての建物を窓越しにながめていた。
17世紀の建築で、ヒトラーは生後数カ月をここで過ごした。建物は工事中で、手持ちドリルの大きな音が聞こえてきた。この家の裏では、山積みになったれんがの上を大きな掘削機が動き回り、ヘルメットをかぶった作業員が地面を掃いていた。
長い間、この家を気に留めるような人はほとんどいなかった、と町民の多くはいう。例外は、観光客がカメラのシャッターを切ってほしいと頼んでくるときか、ヒトラーの誕生日にろうそくや花輪を携えたネオナチがたまに現れるときぐらいだった。
しかし、オーストリア政府は2017年、この家の接収に踏み切った。ここが負の象徴となり、悪の温床となることを強く警戒しての措置だった。議論をしばし重ねた結果、警察署として改修することが発表された。
現代のヒトラー支持者が寄りつくのを阻止し、苦痛に満ちた過去とのつながりを断ち切るのが狙いだった。その工事が、2023年10月に始まった。
「いい機会を逃してしまった」とポンマーは唇をかむ。
多くの町民と同じように、この建物を博物館か展示場として残したかった。オーストリアがナチス・ドイツの体制で果たした役割を明らかにするためだ。
とくに、今は(訳注=ロシアのウクライナ侵攻により)戦火が欧州で再び吹き荒れ、(訳注=ガザ紛争をきっかけに)反ユダヤ主義が強まり、(訳注=多くの難民の流入などもあって)極右政党が人々をあおり立てているだけに、この建物は貴重な歴史の教訓を発信してくれたに違いない。
「一人の人間が、いかにしてヒトラーになったのかを説き起こす場にするべきだ」とポンマーは話す。「あれは『悪の家』なんかではない。ただ、子どもが1人、そこで生まれたに過ぎない。でも、その子が何者になったのかを検証することに意義がある」
(訳注=オーストリア・ハンガリー帝国の)税関職員だったアロイス・ヒトラーと3番目の妻クララがこの建物の部屋を借り、息子のアドルフが生まれたときは、居酒屋がここにあった。
一家は1年足らずで町内の別のところに移り、さらに2年後、(訳注=イン川を下った)ドイツ側の国境の町パッサウに引っ越した。
ヒトラーが生まれた建物は、(訳注=ナチス・ドイツがオーストリアを併合した)1938年にナチスの高官マルティン・ボルマンによって党の資産とされた。面している通りも「アドルフ・ヒトラー・シュトラーセ(通り)」と改称された。
建物は公立図書館となり、地元の公認芸術家の作品展示場が併設された。ナチス信奉者にとっては、ある種の巡礼地のようにもなった。
戦後は、もともと所有していた家族に返され、図書館として貸し出された。その後に学校、さらに銀行になった。しかし、そのまま賃貸が続くと、ナチスの思想をたたえるために使われる恐れもあった。
オーストリア政府はそうならないよう、1972年に自らが借り受けた。1977年には、障害者の関連団体が入居したが、(訳注=建物の傷みがひどくなり)2011年に退去した。
そこで、オーストリア議会は2017年にこの建物の接収を認める法案を可決した。補償として81万2千ユーロ(現在のレートで約1億3100万円)が支払われた。
では、空き家となったこの建物はどう使われるべきなのか、考え直すことになった。難民の住まいか。ユダヤ人を守り、ヒトラーに抵抗したオーストリア人をたたえる施設か。平和と戦争を研究する拠点か。
「アドルフ・ヒトラーが生まれたところを歴史的に正しく取り扱うための政府諮問委員会」は、解体には反対する勧告をまず出した。「この場所にまつわる歴史を否定することを、オーストリアという国家に許すべきではない」との理由だった。
一方で委員会は、博物館にもできないと結論づけた。「いつまでもヒトラーに結びつけられることになる」からだった。結局は、「建物の外観を再設計してもとの形が分からないようにすれば、見る価値がなくなり、象徴的な意味合いも失われる」という勧告になった。
最終的に、政府はこの建物に地域一帯の指令機能を持つ警察署を置くことを決めた。
改修後は、今の建物の後ろ側に新しいビルが二つ建つ。さらに人権擁護の訓練施設と、もとの建物の正面部分の改修を合わせ、総工費は2000万ユーロ(32億円余)。警察署が入るのは2026年になる。
引退した教師で郷土史家のフロリアン・コタンコによると、多くの町民は今も障害者の関連施設が入っていた方がよかったと考えている。なぜなら、ヒトラーは障害者を迫害しており、そんな思想に正面から立ち向かうことになるからだ。
「望みもしない負の遺産だが、私たちは善処せねばならない」。建物の裏側にある工事用の板塀が、隣接する格安スーパーとの間を仕切るところに立ってコタンコはこう話した。
警察署が入るという決定は、むしろ裏目に出るかもしれないとも見ている。ヒトラーの信奉者を遠ざけるよりも、逮捕されてぶち込まれることが勲章になるという連中を引きつけてしまうかもしれないからだ。
ヒトラーは、著書「わが闘争」の冒頭で生地について触れている。でも、この町のあたりにいたことを裏付けるものはあまりない。
町民の何人かは、この建物については関心がないという。アルミ工場と傘の製造工場が最も大きな雇用先という町では、失業問題も含め、心配のタネはもっとほかにある。
「空き家にしとけばいいじゃない」とシルビア・ベルクハンマー(53)はそっけなかった。通りを少し下ったところにあるパン屋「ツァーグラース」で働いている。「そんなことを議論したって、私たちの子どもたちには何のたしにもならない」
「そんなの昔のことだよ」とアンマー・アルハティブ(15)は首を振った。リュックサックを背負った生徒で、道路をはさんで反対側にある建物の戸口に立っていた。
しかし、より多くの人たちは警察署になることに不快感を示し、冒頭のポンマーのように、歴史を踏まえてそれをきちんと検証できるようにすべきだと語った。
1989年、当時の町長がこの建物の前に花崗岩(かこうがん)の石碑を設置した。80マイル(約128キロ)離れたところにナチスが設けたマウトハウゼン強制収容所の跡地の採石場から持ってきた岩だ。その碑文には、こうある。
「平和と自由と民主主義のために。ファシズムは二度とあってはならない。何百万人もの死者は、こう警告する」
建物をどうするかが議論されていたときに、内務省当局者はこの石碑を撤去することを示唆した。すると町民たちは反対した。石碑のある敷地が国ではなく自治体の所有だったため、結局は存続することになった。
それでもまだ不十分だ、と何人かの町民はいう。
近くのホテルには、傾く午後の日差しの中でエベリン・ドル(56)が座っていた。この町で育った元ジャーナリストだ。
戦後長らく、(訳注=ナチス・ドイツに併合された)オーストリアは犠牲者だったとの感覚が支配的だった、と振り返る。自身も少女時代は、よそから来た人たちには「この建物と私は関係ない」といい張っていた。
しかし、1980年代からは、この国が自画像として掲げてきた「罪のないのどかな地」などではないという認識が広がり始めた。一部のオーストリア人は抵抗したが、多くはヒトラーに従い、その犯罪が実行されるのを手助けしたという見方だ。
だから、この建物が歴史の真実についての国民的対話の結節点となり、「寛容のメッセージ」の象徴となってほしい、とドルは願う。
「肝心なのは、ものごとがどう始まったのかを決して忘れないこと。問題が起き始めたときは、その原点を思い起こそう。今はまさに、問題が起き始めているのだから」
オーストリア人の映画製作者ギュンター・シュワイガーは、この町とこの建物についての映画を作ったことがある。取材に対し、ナチスは強制収容所のようなところばかりで記憶されるべきではない、と強調した。
さらに、「建物のドアを閉め、外観を変えるというのは、真実を隠そうとする政治の延長でしかない」と厳しく批判し、こういった。
「この建物は、普通の小さな町のごく普通の場所にありながら、象徴的な存在になっている。それは、ナチスが外からきたわけでも、『ほかの天体』からやってきたのでもないことを示している。ナチスは、私たちの中から生まれたのだから」(抄訳)
(Graham Bowley)©2023 The New York Times
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