ベルリンのブランデンブルク門からウンター・デン・リンデン通りを東へ15分ほど歩くと、古めかしい建物とガラス張りの新館から成るドイツ歴史博物館にぶつかる。ここで今年4月4日から9月22日まで、「ワイマール 民主主義の本質と価値」と題する特別展が開かれた。9月中旬のドイツ出張の際、見学する機会があった。
企画展の入り口の趣旨説明にこうあった。
《リベラル・デモクラシーは、再び脅威にさらされている。デモクラシーの長い伝統を持つ国々でも、権威主義的な政党が力を増している。人々のリベラル・デモクラシーに対する信頼は弱まっており、ドイツですら例外ではない》
一瞬、目を疑った。
ドイツでは、反移民を訴える右派政党「ドイツのための選択肢」が躍進し、ドイツの過去を肯定的に見直す動きが出ていることは承知していた。だが、公的博物館で、これほど鮮明な問題意識でワイマールの再解釈を行うとは、心底びっくりした。
特別展のサブタイトル「民主主義の本質と価値」は、20世紀を代表する法学者、ハンス・ケルゼン(1881~1973)の著書のタイトルと同じである。
ユダヤ系の小実業家の子に生まれたケルゼンは、苦学を重ねてウィーン大学の教授となり、第1次世界大戦後のオーストリア憲法を起草し、その中で憲法裁判所という新しい制度を導入したことで知られる。同時に、政治思想・法思想の分野では、自由と寛容を重んじる民主主義論者であった。
今回の特別展では、ワイマール・デモクラシーの擁護者としてのケルゼンを前面に立てた構成になっていた。中でも目を引いたのは、ビジュアル的効果に配慮した展示だった。ヘッドフォンをつけて、スイッチを押すと、目の前のスクリーンに、ポップなアニメ風のケルゼンの姿が映し出された。ナレーションが始まった。こんな具合だ。
《第1次大戦後のドイツでは、オプティミズムが広がり、だれもがデモクラシーという言葉を口にした。しかし、デモクラシーが何を意味するか、だれも分からなかった。そこで重要な役割を果たしたのが、ケルゼンだった。ケルゼンは、「だれひとり他者を統治する権利を持っていない。しかし、我々には政府が必要だ」と考えた。そこで重要なのは、異なる意見を持つ人々がお互い、妥協する意思を持つことだ。ケルゼンは、絶対的な真実というものは存在しないと考え、だからこそ、多数派と少数派は折り合わねばならないと主張した。しかし、妥協を重んじるケルゼンの考えには、左派からは「大事なのはデモクラシーを支える理念だろう」と批判された。右派のカール・シュミットは、「自由選挙も議会制も意味がない。デモクラシーに大事なのは社会の構成員の同質性だ」と説いた。あれから長い年月が経った。今の世界は、多元主義、開かれた社会という考えが重んじられる。ケルゼンの唱えた姿に近づいているのだ。しかし、デモクラシーに最終的な結論はない。人はどうすれば、ベストな形で共存することができるのだろうか》
ここでケルゼンと対比されたカール・シュミット(1888~1985)は、同時代を生きた政治学者・法学者で、独裁政治を肯定、ナチスの政権奪取後は、一時はナチスに接近しナチスの御用学者と言われた人物である。ケルゼンとシュミットを対比した2分ほどのビデオクリップに、今日ワイマールを論じる意味が巧みに凝縮されていた。
特別展の展示は、ワイマール共和国の混迷の深さに焦点を当てていた。
君主制を廃止したものの、帝政時代の官僚・組織が根強く残り、デモクラシーを求める諸勢力と激しくぶつかり合った。第1次世界大戦から復員した人々は、武器をそのまま保持していたため、政党間の争いは、しばしば市街戦と化した。
労働者は、デモや政治集会に参加するようになり、女性の社会進出も飛躍的なスピードで実現した。映画、ラジオが登場し、華やかな大衆文化が花開いた。しかし、急激な社会変革は、そのスピードについていけない人々の間に、不安感、恐怖を引き起こし、アイデンティティーの喪失感が強まった。
左右の対立に悩まされ続けたワイマール・デモクラシーは結局、安定した政党政治を実現できず、大統領の非常大権により危機を打破する異常事態を繰り返すようになった。多数派と少数派の妥協、寛容を唱えたケルゼンの思想は、実を結ばなかったのである。
特別展の展示は、そのような1932年で終わっていた。
現実の歴史には、もちろん続きがある。
すべてが崩壊したとき、ドイツにはヒトラーしか残っていなかった。
民主主義は、異なる意見を妥協させ、調整する技である。その技を失ったとき、民主主義は自壊する。それが、ワイマール・デモクラシーが100年後の我々に残した教訓ではないか。