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日本社会は予定調和がお好き? 台湾にできて日本にできない展覧会とは

アートから世界を読む
ミン・ウォン《ブラディ・メアリー 南太平洋》2018
ミン・ウォン《ブラディ・メアリー 南太平洋》2018

バランスが悪い?秀逸な映像作品の数々

筆者にとって本展は久しぶりに見る刺激的で清涼感を味わうことのできる展覧会だった。同時に思ったのは、これは日本では実現不可能だろうということだ。

まず形式的なことをいうならば、映像作品が多い。それもかなりの長さである。本展のキーとなる作品の一つであるリュウ・チュアンの《ビットコイン・マイニングと少数民族のフィールドレコーディング》(2018)は40分だ。前回に続き本稿で紹介している作品は全て映像または映像インスタレーション作品で、他にもシンガポールを代表するアーティストの一人ミン・ウォン(黃漢明)による自身が他者に「扮する」ことによって歴史との接続を試みる作品や、日系ペルー人アーティストのマヤ・ワタナベ(渡邊麻耶)による地震の前後に水槽の中で起こるドラマに焦点を当てた映像インスタレーションは、強い印象を放っていた。

マヤ・ワタナベ《地震》2017
マヤ・ワタナベ《地震》2017

それに比して各セクションの入り口に配置された李禹煥(リ・ウーファン、日本と韓国を代表するアーティストとして本展では最も有名でベテランといえる)の彫刻は、アジア的な「無(Void)」を象徴する作品として重要な意味を持っていたにも関わらず、展示方法が成功しているとはいえず、李の作品が本来持っているエネルギーが十分に伝わらなかったのは残念だ。その他の平面や彫刻作品も理想的な展示には見えなかった。やはり本展で一番説得力を持っていたのは優れた映像作品の数々である。

李禹煥《関係項》1969/2019, Courtesy of Pierre Lorinet Collection, Singapore and SCAI THE BATHHOUSE, Tokyo
李禹煥《関係項》1969/2019, Courtesy of Pierre Lorinet Collection, Singapore and SCAI THE BATHHOUSE, Tokyo

つまり、大規模なビエンナーレ展として本展は「バランス」の良いものではない。絵画や彫刻などの「伝統的な」メディアの作品を入れて現代美術に不慣れな一般の観客にも「親しみやすくわかりやすい」構成にし、さらにフェスティバルとしての「祝祭感」を出す(そして最近は「インスタ映え」も重要だ)ことがこの種の展覧会には求められることが常である。少なくとも日本ではそうだ。「映像が多いですね」というコメントは多くの場合ネガティブな意味合いをもつ。時間を割いてアーティストの世界に付き合うという鑑賞方法は多くの人に支持されているわけではない。

筆者は共同キュレーターを務めたホー・ツーニェンに、なぜこのように映像中心で内容も決してわかりやすくない、「攻めの」展覧会が可能だったのか、美術館からの干渉はなかったのかを尋ねた。それに対し彼は、美術館が終始協力的でキュレーターであるホーとシュウ・ジャウェイに決定を委ねてくれたこと、公園の中の入場無料の施設なので来館者が気楽に訪れ、何度も再訪することを期待したこと、各セクションごとに「フットノート」のコーナーを設け、展覧会に関係する時代背景やエピソードをわかりやすく説明したことを語った(2020年2月、筆者がホー・ツーニェンにメールでインタビュー)。企画の早い段階からリサーチ・アシスタントのリン・イシュウ(林怡秀)とともに、展覧会の大事な要素としてフットノートを構想していたそうだ。

写真や新聞記事、著作からの引用などを紹介するフットノート
写真や新聞記事、著作からの引用などを紹介するフットノート

アートと社会を結びつける「フットノート」

確かにこの「フットノート」は展覧会理解のために非常に有効なツールだった。4つに分かれた展覧会のセクションの終わりにパネルが組まれ、写真や新聞記事、著作からの引用など簡潔な文章が紹介されている。この「注釈」の導入によってアーティストが表現するイメージとキュレーターのコンセプトが有機的に結びつくのだ。またこれらの史実、ファクトの提示によって、ここに表現されたアートは、フィクションであっても「絵空事」ではないこと、アートと歴史、政治、社会との密接な関わりが浮かび上がるのである。

しかし、長尺の映像作品を最後まで鑑賞しこの「フットノート」に目を通す観客がどれだけいるだろうか。筆者がみる限り会場全体は空いていたし、フットノートのスペースに人だかりがあるわけでもなかった。動員数の観点から「人気のある」展覧会には見えなかった。そのような展覧会を国立美術館が許容するという事実に驚く。

予定調和の娯楽?日本でのアートの理解

アーティスト主導のアカデミックで知的で政治的なテーマを含んだ展覧会。日本ではありうるだろうか。昨年の「あいちトリエンナーレ」の騒動(まとめ:あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」展示中止にまつわるタイムライン)を思い起こせば、従軍慰安婦や天皇の表象に対して感情的に反応した人々によるクレームは暴力的な「電凸」にまで発展し、政治家や役所が介入し、予算化されていた7800万円の文化庁の補助金の取り消し(2020年3月23日に減額され6600万円あまりの交付が決定)にまで至った。さらに「人々を不快にさせる(可能性のある)表現に公金を使うべきではない」という考えは、多くの市民に受け入れられている。このような環境において、万人には理解されないであろう新しい解釈を伴った挑戦的な表現への寛容さは期待できない。

では、公金を投入するに値する(?)「わかりやすい」芸術とは何か。それは既に見たり体験したことのある、慣れ親しんだ表現になるだろう。知っていることに対して人が安心感を覚えるのは自然なことだ。高尚さや専門性は不要、「新しさ」はあっても先進的すぎてはならない。考えることを促したり、問いを突きつけられるような居心地の悪さは味わいたくない。ほどよい感動と予定調和の楽しさがほしい、深刻なのは困る。アートは娯楽なのだから...。このような感覚を多くの人がもっているのではないか。

2000年頃から日本国内でビエンナーレやトリエンナーレと呼ばれる2〜3年に一度開催される芸術祭が数多く誕生した。それらが地域の町おこしと結びついたことが、地域住民や自治体の意向が芸術祭に影響を与えるようになった要因でもあるだろう。もちろんそれぞれの芸術祭によって、地域の活性化や観光など目的やターゲットは異なってよいのだが、各国の優れたアーティストと芸術関係の専門家が一堂に集まる芸術祭は、独自の研究や提言を示し、国際的で知的な議論を展開するためのきわめて重要な機会であることも忘れるべきではない。

「あいちトリエンナーレ」では一部の作品をめぐる保守的な発言が目立ったが、真に「政治的」な作品が意外にも攻撃されなかった。日本の文化人と戦争協力との関係を示唆したホー・ツーニェンの《旅館アポリア》(2019)や、日本の植民地政策を批判的に考察した藤井光の《無常》(2019)など、日本の軍国主義に言及する作品が表立って批判されることはなかったのだ。つまりクレームを言う「市民」やそれに連動する行政は、展覧会や作品の中身ではなく、作品の表面的一部分(それも大きな誤解を含む)に反応したのであり、しかしそれが芸術祭全体を脅かすほどの力になってしまった。

ステレオタイプから脱し先へと進むアーティストたち

このような環境下で危惧されるのは、企画者やアーティストによる自主規制である。何に反応するかわからない声の大きな一部の市民や役所関係者、また「わかりやすさ」を求める鑑賞者を想定して政治的、批判的表現を避けたとしたらどうなるだろう。学術的探究のための膨大なリサーチや関係者との活発な議論を行おうとするモティベーションは下がるのではないか。「アジア・アート・ビエンナーレ」で見たようなリサーチと議論、反対意見や検閲を恐れない新たな表現や提言は出てくるだろうか。このようなチャレンジを「すると嫌われる」から「しなくていい」、やがて「自分の頭で考えなくなる」「知的好奇心や思考レベルが下がる」という負のスパイラルに陥ってはいないだろうか。

ヨーロッパやアメリカと比べて決して表現の自由が担保されているわけではないアジアの国々のアーティストたちが、国を超えて議論し協働するプラットフォームに日本人の不在を感じたことを前回述べた。「アジア・アート・ビエンナーレ」のアーティストたちは、第二次世界大戦や植民地主義を振り返る際にも、かつての加害と被害のステレオタイプな解釈からはとうに脱しているのだ。日本の植民地主義を表現したからといって「反日」などであるはずもない。実際にホー・ツーニェンやシュウ・ジャウェイをはじめ多くのアーティストは日本滞在経験が豊富で日本の美術関係者とは密接な友好関係を持っている。政治的機関どうしでは解決できない歴史の問題を、アートはより自由に、柔軟に表現し、新たなビジョンを提示することができるのである。そのような当たり前のことが共有されない昨今の日本の芸術を取り巻く環境を考える時、日本はそもそも他のアジアの国々と同じ次元に立っていないことを感じざるをえない。さらに、知的かつクリエイティブに戦争の過去に向き合う経験が圧倒的に不足している(アーティストやキュレーターに限らず、日本国民全体が)ために、他のアジアの国々と同じ視点を持ち得ないのだ。

「アジア・アート・ビエンナーレ2019」の会場
「アジア・アート・ビエンナーレ2019」の会場

閉鎖的な構造を変えるために

日本にもリサーチを通して歴史や政治の問題に向き合うアーティストとして小泉明郎や藤井光、山城知佳子などがいる。しかし先日、海外での展開が期待できる日本の中堅アーティストを対象とした「Tokyo Contemporary Art Award」(TCAA)を受賞した藤井が、同賞の意義について答えた以下の言葉からは、日本で活動を続けることがいかに困難であるかが伝わってくる。(ちなみに藤井はホー・ツーニェンと同じ1976年生まれである。)

本アワードの逆説的な意義は、「中堅」とされるアーティストが日本で活動することの困難を示すことではないでしょうか。芸術・文化の重要性を理解している国の「中堅」が置かれた社会的・経済的な状況と比較すれば、構造的な違いがあることは明らかです。経験年数だけをみれば私は「中堅」かもしれませんが、制作環境と生活の実態は「新人」のままいつまでも過度に不安定であり、絶えず活動の存続が危ぶまれているのです。「危機の時代のアーティストを支える持続的な場を。Tokyo Contemporary Art Awardが果たす意義」(『ウェブ版美術手帖』2020.4.30)

さらに藤井は「あいちトリエンナーレ」への意見を求められこのように述べている。

いま、まさに緊急的な支援を必要とする芸術と文化行政の関係が問われていますが、芸術活動と公共性の関係に再考が迫られているのは、アーティストではなく行政機関であるというのが私の認識です。(...)行政機関が公共性の概念を更新せず特定の社会集団の公益性を守ろうとすると、他者の表現の内容・思想・良心に立ち入り、選別するという歴史的・法的・国際的に禁じられた「検閲」が再び起こります。同上

展覧会のキュレーションやアーティストの表現は多様であっていい。しかし、じっくりと考察し、議論を重ね、政治や歴史へ新たな視線を向けるアーティストやプロジェクトが日本でもっと増えてしかるべきだ。そのためにはそれを奨励し、受け入れる環境が必要である。美術教育の現場でも、伝統的に日本では手を動かして技術力を伴った作品を作ることに重きが置かれてきた。またひたすら自身の内面と向き合う行為を制作の本質だと捉える者も少なくない。思考を促す教育が必要だ。

リサーチを通して他者と出会い、過去を振り返り、未来へ向かって新たな可能性と関係性を探るために、教育や美術館、芸術祭の現場が取り組むべき課題は多い。萎縮や妥協をせず、プロフェッショナルとして知力を高めて挑戦を続けなければならない。戦後75年のアジアという場所について、「当事者」として他国の仲間たちと議論していくために。

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前回のコラム「アジアの最新アートは「日本の支配」をどう描く?台湾のビエンナーレを分析」

前々回のコラム「ビットコインから華厳の滝まで ビエンナーレで探るアジアという場所」

展覧会情報

アジア・アート・ビエンナーレ2019
国立台湾美術館
2019年10月5日ー2020年2月9日
アジア・アート・ビエンナーレ2019HP