グレーの絵の具を垂らしたかのような深く濃い霧の中から現れる男性の姿と、その後ろに続く羊の群れ。首輪につけた鈴の音が次第に大きくなる。志村信裕の映像作品《Nostalgia, Amnesia》(2019)は、まるで夢かおとぎ話のような幻想的なシーンから始まる。
舞台はスペインと国境を接するフランス領バスク。夏場に麓の村から山へと羊を連れ出す「移牧」が古くから行われている。積まれた干し草の前で羊飼いが牧羊の仕事について語る。羊の移動や搾乳、チーズ作り、餌やり、羊毛紡績。その口調は静かだが、仕事への愛情と誇りに満ち溢れている。さらに紡績の仕事に携わる老女の姿も印象的に描写される。糸縒(よ)りを生業とする彼女が動かす年季の入った足踏み式糸車、しわの刻まれた手、板を踏む足元がフォーカスされ、彼女と仕事との歴史が伝わってくる。
場面は突然、バスクから千葉県成田市へと飛ぶ。三里塚にかつて存在した日本初の牧羊場の話が、年老いた研究者によって語られる。明治の西欧化の流れの中、羊毛の国内自給が求められ、この地区に御料牧場が作られたのだという。
さらに、現在の三里塚で農業を営む男性が登場する。狭い農地で作業する男性の背後に、轟音とともに航空機が迫る光景は異様だ。
1966年7月、三里塚における国際空港の建設が閣議決定されると、地元反対派とそれに加わる左翼グループによる反対運動が始まった。しかし畜産振興の拠点だった三里塚御料牧場は1969年、成田空港の建設とともに閉場し、周囲の農地も買収されていった。ところが50年を経た今でも、立ち退かずに抵抗を続ける農家がわずかに残っているのだ。映像の男性はその中の1人である。
たくわん用の細長い大根の泥を水で落とし、キャベツを一つ一つ収穫し、落花生を吟味する男性の様子とその手元がアップになる。スローすぎるほどの映像の長回しが、この根気のいる作業のリアリティを表現している。それは生産性やスピードとは程遠い、手間暇のかかる仕事なのだ。志村の映像は、バスクの羊飼い、糸を紡ぐ老女、三里塚の農夫の姿を交互に見せながら、労働の本質を映し出す。羊、糸、野菜、土、それらに直に触れる人の手の感触が伝わってくる。自然とつきあいながら培われた手わざは優美で、独特の魅力が漂う。
しかし羊飼いが語る言葉からは、世界の経済状況が及ぼす産業への厳しい影響もまた見えてくる。移牧というスタイルの減少、機械化、化学繊維の普及によって暴落した羊毛の値段。羊毛1キロあたりがわずか0.25ユーロ、200頭分がおよそ100ユーロで、毛を刈るために支払う賃金の半分以下だ。つまりこの地の羊毛紡績業は産業としては破綻しているのである。
一方、三里塚でわずかな農地を守り抜こうとする農夫の抵抗にも限界が見えている。バスクの老女は撮影の数カ月後に仕事を引退した。
グローバリズムの波の中で、あるいは巨大な権力の下で、働き手の愛に溢れる昔ながらの仕事は消えようとしている。志村は、そのシビアな状況を批判したり解決しようとするのではなく、忘れ去られる人と労働との関係を「記憶」として映像に収めたのだ。それが作品タイトルの言葉「ノスタルジア(懐古)、アムニジア(健忘症)」に表れている。これはドキュメンタリーではなく、忘れられる運命にある労働のイメージを美術として表現した、記憶の形なのである。
「絵画的」ともいうべき志村の美意識やアプローチとは趣が異なるが、山城知佳子による新作の映像作品《チンビン・ウェスタン『家族の表象』》(2019)もまた、「労働」の持つ複雑かつ現実的な側面について考えさせられる内容だ。
沖縄出身のアーティストとして沖縄の過酷な歴史と進行形の問題に対峙してきた山城は、今回「マカロニ・ウェスタン」(イタリア製西部劇)をヒントに、沖縄流西部劇「チンビン・ウェスタン」を着想した。チンビンとは沖縄の菓子のこと。西部劇の要素に加え、オペラや沖縄芝居が劇中劇のように交錯する。深刻なテーマを悲喜劇として描き、ある種の軽やかさとエンターテインメント性を取り入れて表現した異色作だ。
作中に登場する4人家族の稼ぎ頭である男性は、鉱山の採掘場で働いている。
自然を切り崩し、その土砂はアメリカ軍普天間基地の移設先として建設が進む辺野古の海を埋め立てるために運ばれる。山肌があらわになった採掘現場が、砂埃が舞う西部劇の荒野のイメージと重なる。自然を破壊し基地を建設するという「ダーティー」な仕事に対して、家庭の中に葛藤と緊張が生じる。罪悪感ゆえにか苛立つ夫と、本心を隠して取り繕いながら夫をなだめる妻とのやりとりが、夫が歌うオペラ(外部の文化)と妻の琉歌(内部の伝統)の掛け合いによって表される。子供たちはカーテンに隠れて一触即発の夫婦の危機を不安げに見つめている。
しかし、このような家族の姿は沖縄だけのものではない。「誰が食わせてやってると思ってるんだ」…。労働と経済を引き合いにした支配は、最も親密なコミュニティの単位である家庭内で頻繁に起こる。しばしば巧妙に隠されてきた暴力の構造がそこには存在する。
この家族と対照的に描かれるのが、先祖の土地を守る老人とその孫娘である。自然の声や土地の神に耳を傾ける存在として描かれる、不思議な力をもつこの少女は、自然破壊に加担する家族に静かな警告の眼差しを注ぐ。それに対して自責の念から平静を失う妻。しかし夫もまた、妻と子を養うために本意ではない労働に従事しているのだ。この平凡な家族のドラマを通して、先祖代々守られてきた神聖な土地を破壊して開発を進める沖縄の現実と、本土やアメリカ、さらにはグローバリズムという圧倒的な力の存在が浮き彫りになる。
成田空港建設の際に、政府の圧力と札束の力によって三里塚の人々が分断されたように、沖縄もまた基地や開発をめぐって人々はバラバラになり、大切なものが失われていく。
《チンビン・ウェスタン》は、荒廃した採掘現場に琉球王朝時代の服を着た男たちが現れ、沖縄の方言で芝居を演じる場面で終わる。彼らの言葉を通して、沖縄の現状への嘆きと、生きるためには仕方がないという開発する側への共感が交錯する。やがて神のような人物が現れて謎めいた動きを見せるが、その様子はコミカルで頼りなく、結局解決の糸口はどこにも見当たらない。
世界的な変化の波、権力、支配、そして金。志村と山城は、一筋縄ではいかない人と労働との関係を、ていねいに観察しながら表現している。産業構造の変化は歴史の必然であり、多くのものが消えゆく運命にあることは明らかだ。しかし、人にとって幸せをもたらす労働の価値とはどのようなものだろうか。合理化し、破壊し、仲間を失った末に得られるものとはなにか。
いま、世界における労働の形はこれまでにないほどの規模とスピードで変化している。だからこそ、人と自然との関係、労働にまつわる彩りや豊かさに目を向け、その記憶をイメージとして脳裏に焼きつけることが必要なのだ。